Γと共に駆け抜けた青春
スピードが我がアイデンティティだった時代
ある人のブログで、ガンマの記事を見つけ、当時の色々な思いが蘇ってきた。
なんだか昔の恋人の事を思い出すような甘くて切ない感情を伴って、走馬灯のように思い出が駆け巡る。
ガンマの思いを綴ろう。
SUZUKI RGV250γ
僕は、このオートバイでライディングを覚え、旅もしました。
まさに青春と共にあったオートバイです。
乗っていたのは学生時代。
当時、僕は大学の2輪サークルに所属していたのだが、いわゆる走り屋系のサークルで、先輩方は凄まじい方ばかりでした。
走り屋といっても、そんじょそこらの走り屋とはレベルが全く違う集団だった。
少し紹介してみましょう。
サークルのメンバーには走りをメインにする者もいれば、ツーリングがメインの者もいるし、オフロード系もいたり多種多様な人種が揃っていた。
その中でも走りに特化していた人たちは競技へと向かっていき、その殆どがGP250マシンを所有していた。
その競技者たちはレベルが高く表彰台も珍しい事ではなかった。
レースをやっている先輩の一人は、筑波の選手権(GP250)で青木宣篤選手と同じ表彰台に上がっていたりした。
この先輩は、現在あるメーカーに就職し開発をしている。
しかし、このようにレースへの参加も盛んではあったが、サークル活動のメインはやはりツーリングであった。
多才な人種が揃うサークルなので、ツーリングのエピソードも事欠かない。
あるツーリングの道中、ローリング最盛期の大垂水峠を通りかかった時の事。
僕らは峠になるとフリー走行になるので、それぞれローリングしている小僧たちに交じって走り始めた。
その中、GPX750という重たいオートバイに乗っていた凄腕の先輩がいて、前後ドリフトさせながら凄まじい走りで小僧たちを突っつき始めた。
恐れおののいた小僧たちは、いつの間にか駐車場に引っ込んでギャラリーと化していた。
僕もギャラリーしていたのだが、タイヤから白煙をあげてスライド走行する姿は小僧たちを圧倒する迫力でまさに鬼のような走りだった。
伝説を挙げればキリがない。このサークルの数多くの武勇伝(自慢?)は本題から外れるので、いつか別記事に出来たらと思う。
このようなサークルで、僕は鍛え上げられ、腕を磨いていったのだ。
横道に逸れたが本題。
スズキのオートバイとの出会いは、2輪サークルゆえに2輪メーカーに就職している先輩方も多く、その中でスズキに勤める先輩との繋がりでSBSに出入りするようになったからだ。
レプリカ全盛の時代だった。
250も、400も、各メーカー多種多様なオートバイを揃えていた。
しかし、僕の興味は最もレーサーに近い2サイクル250㏄のオートバイに限られていた。
ホンダのNSRにも惹かれたが、先程述べたスズキの先輩の関係で、ガンマにたどり着くこととなった。
今考えればこの時に、当時最強と言われていたホンダへ立ち向かう打倒ホンダの気概が植えつけられるキッカケになったのだろう。
矛盾するが、今所有しているレーサーは全てホンダになってしまった。ちょっとしたタイミングの問題なのでしょうがない。
このガンマには、とにかく良く乗った。
どこに行くにもガンマだったし、何もかもがオートバイと結びついている生活だった。
今の僕から言わせれば、バカで呆れてしまうのだが、長野のスキー場まで雪道を登っていった事もある。
対向車はすれ違うたびに目をまん丸にさせてビックリしていたが、当時の僕にはオートバイ(当然ガンマ)で行くこと以外の選択肢が思い浮かばなかった。
幹線は融雪してあるので普通に走られたが、スキー場までの数キロは、完全な雪道だったので、前に進まないオートバイを死に物狂いで走らせた。
宿泊したユースホステルの人も、スキーシーズンにオートバイで来た人は初めてだと感心(呆れて)していた。
何をするにもオートバイが基本だったので、車だとかバスなんかで行く事は、これっぽっちも考えに無かったので馬鹿としか言いようが無い。
都内に、数十年ぶりの大雪が降った時があった。
そんな時も、ワクワクしながらオートバイを走らせた。
幹線道路すら完全に雪で覆われており、平日なのに車が全く走ってなかった。
いつもは渋滞する道を走っているのは、チェーンをチャラチャラ言わせながら走る路線バスとトラックだけだった。
2輪車は当然走っていない。
環七を独り占め出来るなんて、ありえない光景だ。
道路って排水の為に側道に向かって緩やかに傾斜しているのだが、その傾斜のせいで、ちょっとしたキッカケでリヤが流れたりした。
リヤが流れ出すと、止まるまで1車線分スライドしてしまったりした。
車が走っていると危ないだろうが、走ってないので何とか無事に帰ることが出来た。
こんな馬鹿は僕だけかなと思っていたら、カブのおじさんが一人だけ走っていた。
信号で並んだ時に、互いの勇敢な姿を称えるように挨拶をした。
この時は、確か二日間くらい交通が麻痺していたと思う。
そんな2輪生活を送りながら、サーキットにも通うようになっていた。
オートバイブームの時代であったが、レースブーム全盛の時代でもあった。
僕の走っているクラスはSP250クラスで、筑波選手権では予選参加台数が200台を越えていた。
パドックもトランポが溢れかえり、マシンは青空整備といった感じだった。
お金は無かったが、若さゆえの自信だけはあった。
誰にも負ける気はしなかった。
人より少し遅れたのは、マシンのせいだと決め付けていた。
僕は、完全にノーマルで走っていたからだ。
良いパーツと練習時間さえ確保できれば誰よりも速く走れると思っていた。
根拠なんて何処にもないのだが、エネルギーを持て余している若さのほとばしりってやつかな。
伝説のライダー、松本憲明さんから教えていただいたこともあった。
僕のどういう所を見込んでくださったのかは分からないが、RS125を用意してやるから、125で走ったらと言ってくれた。
しかし、僕は排気量の小さいGP125よりもSPであっても250のマシンで走りたくて返事をしなかった。
後から考えて、ようやく気が付いたのだが、人生の大チャンスを逃していたのだ。
ものすごく後悔している。
今だったら分かるのだが、純レーサーの125で基本を学ぶ事がとても重要だったのだ。
その時、僕がもっと素直であったならば別の人生があったかもしれない。
とにかく乗れていた時代にGPマシンに乗らなかった事は、残念でならない。
タイムマシンで、当時の自分に教えに行きたいくらいだ。
僕は、よく転んだ。
無茶で、怖い物知らずだった。
転ぶたびにお金が無くなっていった。
そして、怪我をして、サーキットから遠ざかって行くことになった。
僕は、傲慢で世間知らずだった。
レースの世界でも、多くの人達が、血気にはやる僕を温かく見守り手を差し伸べてくれた。
そんな愛情にも気づかずに僕は我が道を行った。
レーシングスピードで駆け抜けていった青春のひとコマです。
結局、レースにも、ツーリングにも、通学や買い物にもガンマに乗り続けて、計3台のガンマを所有していた。
全部、新車で買った。
日本で最初にデリバリーされたSP仕様を、SBS高田馬場で手に入れたのは僕だ。
それらも、山のようにあったパーツと共に消えていってしまっている。
また、あの時のように2サイクルの弾けるように加速するマシンに乗りたい。
ある日、出張先の田舎で、バイク屋の店頭にガンマが置いてあった。
僕は懐かしさというよりも何か引っ張られたような感じで車をUターンさせて見に行ってしまった。
近くで見てみると年式の割には手入れのされているガンマであった。
エンジンも掛けてもらい跨ってみると、十数年ぶりにもかかわらず、体に染み込んだ感覚が蘇ってきた。
文字通り手足のように使いこなしていたマシンの感覚であった。
バイク屋の主人が乗っているマシンだが、譲ってもいいと言われた。
金額もプレミア的なものは無く、妥当な金額だった。
ものすごく欲しくなり衝動買いしてしまいそうだったが、グッとこらえて連絡先だけ頂いてきた。
もうそれから1年以上が経ってしまっているが、まだあるのだろうか。気になる。
VJ21型ガンマ、いつまで手に入るか分からないが、お金に余裕が出来たら何とかして手に入れたい。
パーツも手に入らなくなるだろうし、出来るだけ早いうちに手を打たなければならない。
RGV250ガンマは、僕の青春時代の酸いも甘いも一緒になって過ごしてきたオートバイである。
いつか、また乗られる日を夢見て・・・
ここまで僕の駄文を読んでくれてありがとう。
ガンマを愛していて共感してくれる人はコメントを残していただければ嬉しいです。