先日、ちょっとした事で神さまに指摘された罪がありました。
ある人が私を呼びました。
「ぴーちゃんっ!」
その時、私はとても疲れていて、
かつその頼まれる内容も分かっていたので、
私には煩わしく思われたので、
すぐに返事はせずに軽く「うん、いいよ。。。」と言いました。
本来なら、喜んで「なぁ~に~?うん、いいよ~」
と言うべきでした。
その事を、神さまは知っておられました。
疲れるのが悪い訳ではありませんし、出来ない事をする必要もありません。
でも、それは私にとっては「愛のない事」「不親切で意地悪な?事」だったんです。
そして、それは誰にも気づかれないような些細な事でした。
そう、心の奥の「心の在りよう」です。
私はすぐに「間違いを犯してしまった」と分かりましたので、
「イエスさまごめんなさい!申し訳ないです」と告白しました。
そして、イエスさまがそんな私の罪を赦すために十字架にかかられた事を、
心から感謝してお祈りしました。
(ルカによる福音書23:34)
そのとき、イエスは言われた、
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
の「彼ら」とは私の事だと感謝しました。
その事を通して、ある牧師先生のお話を思い出しました。
その方はとても温厚な人で、いつも穏やかにお話される方でした。
「私はね~イエスさまに咎められることがあるんだよ~。
それは、何かを言った事じゃなくて、言わなかった事を咎められるんだよね。」
その先生にとっては、誰かに忠告したりする事は苦手でしたが、
時々、神さまがそうするように言われてるのに、しなかったらしいんです。
その事は、その先生にとっては「従わない罪」でした。
でもイエスさまは、細かい事をチクチク言われる小姑のようではありません。
私がいつも穏やかであるように、私を変えたいんです。
いつも愛があふれ、喜びに溢れる人になるように変えたいと思っておられます。
私は自分で変わる事は出来ないのですが、
神さまが私を変えて下さいます。
その事に希望があります。愛を感じて感謝します。
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「ぴーちゃんっ!」
その時、私はとても疲れていて、
かつその頼まれる内容も分かっていたので、
私には煩わしく思われたので、
すぐに返事はせずに軽く「うん、いいよ。。。」と言いました。
本来なら、喜んで「なぁ~に~?うん、いいよ~」
と言うべきでした。
その事を、神さまは知っておられました。
疲れるのが悪い訳ではありませんし、出来ない事をする必要もありません。
でも、それは私にとっては「愛のない事」「不親切で意地悪な?事」だったんです。
そして、それは誰にも気づかれないような些細な事でした。
そう、心の奥の「心の在りよう」です。
私はすぐに「間違いを犯してしまった」と分かりましたので、
「イエスさまごめんなさい!申し訳ないです」と告白しました。
そして、イエスさまがそんな私の罪を赦すために十字架にかかられた事を、
心から感謝してお祈りしました。
(ルカによる福音書23:34)
そのとき、イエスは言われた、
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
の「彼ら」とは私の事だと感謝しました。
その事を通して、ある牧師先生のお話を思い出しました。
その方はとても温厚な人で、いつも穏やかにお話される方でした。
「私はね~イエスさまに咎められることがあるんだよ~。
それは、何かを言った事じゃなくて、言わなかった事を咎められるんだよね。」
その先生にとっては、誰かに忠告したりする事は苦手でしたが、
時々、神さまがそうするように言われてるのに、しなかったらしいんです。
その事は、その先生にとっては「従わない罪」でした。
でもイエスさまは、細かい事をチクチク言われる小姑のようではありません。
私がいつも穏やかであるように、私を変えたいんです。
いつも愛があふれ、喜びに溢れる人になるように変えたいと思っておられます。
私は自分で変わる事は出来ないのですが、
神さまが私を変えて下さいます。
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