マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

冥福を祈るのではなく、悼むのです。

2010年08月22日 08時30分43秒 | 古代史
めったに小説は読まないマヨちゃんですが、天童荒太の「悼む人」という風変わりな小説を読んだ。あらすじをここで言うほど熱心に読んだわけではない。
ただ、この本の主人公はちょっと変わっている。色々な事故や事件で死んだ人の現場を訪れ、故人がどんな人で、誰に愛され、そして誰を愛したのかを聞きまくり、そして故人がそこに生きていた事をいつまでも覚えていると誓い、お参りするのではなく、哀れむわけでもなく、故人の死を「悼む」というのだ。特徴としては死んだ原因にはこだわらないことだろうか。

物語は主人公が全国を回り悼む旅をつづけるうちにそれに関わることになる雑誌記者、あるいは愛する人に殺すよう頼まれ、愛するがゆえに彼の命を奪った幸薄い女、そして悼む人の家族などを中心に、終わってみるとなんだったの?という結末なのである。
だが、肝心なことは私と同じように、現在の殺人事件などのマスコミの報道への痛烈な批判が隠れた主題なのである。

殺されて当然と思われる凶悪犯、寿命が尽きる寸前で自ら命を絶った老人、理不尽な乱暴狼藉によって殺されたかわいそうな被害者、しかし、いずれも人の死に変わりはない。マスコミはその殺され方で報道姿勢を変える。人の死に区別はつかないはずなのに。悲惨な殺され方を劇場的に伝えることで、読者の注目を集め、いかにもお涙頂戴型のドキュメンタリーを作れば、確かに雑誌は売れ、テレビは視聴率を稼ぐ。しかし、後に残るのは加害者への憎しみと、被害者遺族への憐れみである。

つまり、マスコミは被害者の遺族に感情移入し、読者を被害者の遺族の気持と共有させ、加害者を社会的に裁こうとしているのである。
しかし作者が考えたのは、被害者の家族が本当に望むのは死者の存在を忘れてほしくないということなのであった。
私は現在のマスコミの事件報道があまりにも一方的で、いかにも遺族の気持を汲む様に見せて、単に興味本位に読者を裁判官にさせ、世論で加害者を裁こうとしているだけだと思う。
肝心なことは、ある人間の存在が消えてしまったことであり、消えてしまった原因とはまったく別の問題である。遺族にとって消えた存在が悲しいのであって、憎しみや怒りへ摩り替えても心は癒されはしない。

私の自宅のそばで女性が三人の男に嬲り殺された悲惨な事件があった。現在裁判で三人を全員死刑にするかどうかで争っている。いわゆる私的には一番の首謀者と思われるものが無期懲役になったいる。
マスコミは早速その悲惨な殺し方から、いかに加害者が残酷で、死刑が相当だとの誘導をしているが、だったらきれいな殺し方なら良かったのか、苦しまずに殺したなら死刑にはならなかったのか?
遺族は三人全員の死刑が確定して気が治まるのだろうか。でも、恐らく加害者が全員死刑を宣告されるころに、いつしかこの事件は風化し、被害者の生きていたと言う事実も忘れ去られるのである。

私は毎日その事件の発生した場所を通過する。通るたびに私も彼女の事を「悼む」ことにした。大事なことは、加害者を死刑にすることではなく、彼女が生きていた事を覚えていくことなのだ。
「お前は被害者の事を考えたことがあるのか?」と言われそうだが、毎日世界で、日本で色々な事件や事故が起きている。どうして私がすべての被害者の立場に立つことが出来よう。私は自分の回りで、自分の立場で目先の問題を解決するのが精一杯である。そしてなるべく感情移入しないよう心がけている。そうしないと生きていけない気がするからである。