マヨの本音

日本の古代史から現代まで、歴史を学びながら現代を読み解く。起こった出来事は偶然なのか、それとも仕組まれたものなのか?

渤海の国書

2010年08月01日 12時57分55秒 | 古代史
さて、私のブログに不快感をもよおす人は、おそらく私が「天皇は韓半島からやってきた」という主張していると思っているのだろう。
しかし、私は天皇が韓半島からやってきたとは思っていない。もっとも、通り道として足跡を残した可能性は排除しないが、私は満州から直接日本海を渡ったのではないかと考えている。ただし、天皇の血統はいくつかの部族が統合した結果とも思われるので、必ずしも渡来ルートが一本であるとは限らないのである。

私の歴史観にとって、今上天皇の「韓半島に対しゆかりを感じる・・」発言と、もうひとつ、聖武天皇の時代、渤海からの国書が大変に重要なのである。
前者の「ゆかり発言」は禅問答のようなもので、意味する事を十分に理解するには我々の知る資料では不十分で、恐らく天皇家に我々の知らない高野新笠の家系図などが保存されているのだろう。

今上天皇のゆかり発言とは・・・・「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。(以上)

天皇陛下のご発言であるからそれほど軽い発言ではない。もっとも、私は百済という国がどこにあったのかわかっていない。つまり、百済が韓半島にあったとは限らないと言っているのです。注意深く陛下のお言葉を読むと、必ずしも韓国と百済がイコールだと行っていないところに注目して欲しい。
加治木氏は百済は大阪にあったといっているぐらいだから、韓半島にあったと決め付けることは適当ではない。

次に、渤海の国書であるが、
http://www42.tok2.com/home/oaksnet/bokkaikoku.htmから引用させていただきましょう。長いのですが、なかなか興味深いものです。

「天平時代の神亀4(西暦727)年12月20日、寧楽(なら)の都(平城京)に、遙か彼方・満州から使節一行が入京しました。当時、満州にあった渤海国からやって来た使節は宮中に参内し、渤海国王・大武芸(武王)の国書を、時の帝・聖武天皇に奉呈しました(下記)。
<読み下し文>
武藝(渤海国王・大武芸本人)啓す。山河域を異(こと)にして、国土同じからず。延(ほの)かに風猷(ふうしゅう)を聴きて、但(ただ)、傾仰(けいぎょう)を増す。伏して惟(おも)うに、大王の天朝、命を受け、日本の基(もとい)を開き、奕葉(えきよう)光重く本枝百世なり。武藝忝(かたじけ)なくも列国に当たり、濫(すべ)ての諸国を惣(す)べ、高麗(高句麗のこと)の旧居を復し、夫余の遺俗を有(たも)てり。但、天涯路(みち)阻(へだ)たり、海漢(ひろ)く悠々たるを以て、音耗(おんもう)未(いま)だ通ぜず、吉凶問うことも絶ゆ。親仁を結び援(あわ)せん。庶(ねが)わくば前経(ぜんけい)に叶(したが)い、使を通じて隣に聘(へい)すること今日に始めん。謹みて、寧遠將軍郎將高仁義・游將軍果毅都尉將徳周・別將舍那婁ら二十四人を遣(つか)わし、状(のり)を賚(たま)い、并(あわせ)て、貂皮(てんがわ)三百張(はり)を附け、送り奉(たてまつ)らん・・・(以下略)

時の朝廷は、はるばる満州から、高級な貂皮等の「おみやげ」を持ってやって来た渤海国の使節に、右往左往すると同時に、「大国」日本に、「属国」の礼をとってきたものと勝手に解釈し、狂喜乱舞しました。
そして、この時から延長7(西暦930)年1月31日の来朝迄、約二百年間に渡って、実に37回も渤海国使節が日本に来訪したのです。」・・・引用、以上

このなかの「本枝百世」の意味を考えるのが歴史家の使命ではないのか?
他のサイトを眺めてみても、国書のこの部分をあえて省略していることが多い。もちろん学校の授業でこれを習うこともまずない。
だいたい平城遷都1300年というなかで大遣唐使展が行われたように、日本と唐の関係をより大きく見せているが、少なくとも奈良時代は渤海との交流のほうがはるかに親密だった事は明らかである。しかも都の名前が北魏の首都の名前、平城ではないか。これは一体どうしたことであろう。
ここを避けては日本史は解明できないのである。どうして渤海の国王に本枝百世と言われ、何も疑問に思わなかったのか?
百世前には同族だったという事は、仮に一世20年とするなら二百年前、つまり、西暦500年ごろは同族だったのである。さあ、それはどこなのだ?

今紹介したサイトでは、夫余から高句麗、そして渤海へ。かたや、高句麗から百済を通じて日本へと王権が移ったような書き方がされているが、私はそうは思わない。やはり、渤海の支配層が北魏であり、つまり鮮卑族であるなら、私の仮説、藤原家は鮮卑族であるとの説と整合性は非常に取れてくる。なぜ日本の歴史学界が北魏の扱いを避け、渤海との親密な歴史を抹殺しようとしたのか。そしてそれら渤海を含め、北魏や高句麗の使者たちは必ずしも韓半島を経由したわけではなく、直接日本海を渡って出羽の国に到着したのである。

日本の天皇は日本が成立した時からはおそらく万世一系である。しかし、それではせいぜい1300年程度の歴史である。
日本列島が日本と呼ばれる前がどのような状態であったのかを私は十分に説明することは出来ない。邪馬台国と呼ばれる国がどこにあったのかさえわからないのに、倭の五王と天皇の比定すらおぼつかないのに、どうしてすべてがわかったような顔ができるのだろう。よくわからないと言うのが実態のはずである。わからないものはわからないとするのが当たり前だろう。

そして私は、天皇の祖先ははるかかなたヒッタイト、つまりアナトリア近辺(現在のトルコ)から東を目指した旅立ったという前提で考えている。ただ、その前にヒッタイト自体が出自不明で、それはやはりスキタイ族だったのではないかと妄想を膨らませるものである。

私は韓半島から天皇が来たと言う説を否定はしない。しかし、それは単にひとつの可能性だというだけで、自分の中では有力ではない。
そのような事を考えるだけで不遜であり、天皇の神聖を犯すものと考える人がいることは承知しているが、天皇が世界でも稀なほどのお種の持ち主である事を証明する事がそれほど不遜なのだろうか。逆じゃないの?日本の天皇ではなく、世界の天皇だと私は考えているのだから・・・・。

うどんの話。

2010年08月01日 06時31分57秒 | ひとりごと
暑いですね・・・、今日は日曜日、久しぶりに朝寝坊をした。起床は5時半、朝は涼しいが、外ではせみが鳴いていて今日も酷暑になるようだ。
最近仕事が増えたので、本当に日曜日がありがたい。一週間に一度、仕事を休むように決めてくれた神様?に感謝しなければ・・・。え、土曜日?休みませんよ、飲食業は甘くないのです。

最近はうどんを作るのが私の仕事になっているが、室温30度を越すころから麺作りが非常に難しくなってくる。すなわち、うどん粉は室温で保存してあるので加水率が変わってくるのである。冬は50%から夏は40%ぐらいと変化するが、あくまでそれは真水の場合で、塩水の場合はさらに塩分濃度を考えなければならない。最近うどんをこねることになったので過去の記録がまったくなく、現在は手探りで毎日の塩水濃度と加水率を決めなければならない。それまでの店長は年間一定の加水率でやってきたという。それは横着というもので、夏場は麺がだれやすいから塩分濃度を上げなければいけないのである。
手ごねであれば粉と対話しながら少しずつ加水してゆけばよいが、ミキサーで混ぜる場合、ほとんど一発勝負みたいなことになる。まあ、それでも何回かに分けて慎重に加水してゆく。
ミキシングを終えたうどん粉はゴルフボールほどの玉状になる。それを28度に設定した保温庫に入れ一時間熟成する。これは主に空気抜きと粉の中のグルテンを休ませる効果がある。
その後、プレス作業に移る。讃岐での足踏みの作業に当たる。高圧なプレスは不衛生ではないかといわれた足踏み作業を解決した。3度ほど縦横に折りたたみをしながらプレスすることでグルテンを縦横に整列させ、うどんの特徴であるこしを作り上げる。これはグルテンというチューインガムのような成分を立体構造、つまり骨格にするのである。
うどんというのは澱粉質で本体を、そしてグルテンで鉄骨を構成させ、かみ応えや食感を作り出す。骨格がしっかりできていれば茹で置きしても腰はだらけないものなのだ。
讃岐うどんの特徴はまずこの足踏み行程で縦横のグルテン骨格を作ることで成り立っている。一方向だけの延ばしでは骨格が弱く、かみ応えのない腰のないうどんになってしまう。
さて、プレスを終ると立派なうどん玉が完成する。これを18度に設定した熟成庫に保存し24時間後に麺線に加工する。(16度で二日熟成という方法もある。)
このうどん玉をローラーで厚み2.2mmまで薄くし、カッターで麺線にする。
ここで加水率が足りないとひび割れし、非常に難しい延ばし作業になる。適切な加水率なら鼻歌交じりの作業で済む。逆に柔らかいと伸びすぎて薄くなってしまう。ここがむずかしい。
何が言いたいのか・・・・、ようやく現在の気温での適切な加水率を見つけ作業がスムーズになってきたのだ。
塩水濃度が一度違っただけでもまったく違う加水率になる。科学とカンの世界なのである。
さあ、今日はゆっくり休んで、明日からの激務に備えましょう。
おもしろくなかった?そうだよね、うどんの話なんか興味ないよね。
ところで、ヨッシーさんはパン屋さんらしいけど、パンはもっと難しいんじゃないのかな?僕はパンとケーキは苦手だったな、一度も成功したことがない。やっぱり夏と冬じゃ、やり方が違うんでしょうね。