山本周五郎は昭和の初めに千葉県浦安町に移り住み、そこでの見聞・体験をもとに構築したのがこの『青べか物語』だということらしい。といっても、この作品はあくまで小説であって、舞台は浦粕町という架空の町名であり、江戸川ではなく根戸川が海にそそぐ河口の漁師町という設定となっている。
町の人たちから「蒸気河岸の先生」と呼ばれる「私」の一人称で語られており、長短30余に及ぶ挿話が一編の長編小説を構成しているという不思議な物語なのだ。
時々吹き出したり、そうか、昔の千葉はこうだったのか、と思えたり、とても面白かった。
今のディズニーランドのあたりですよね。
山本周五郎はとても心根の優しい小説が多いので大好きなのだけど、この物語も、貧しい中にも、時には狡猾に、時には人生の悲哀を織り交ぜながら、きれいごとではなく、貧しいことは辛く、哀しい、だが、そんな中でも生きのびようとする人間のたくましさが、赤裸々にさらされてたように思えた。
おわりにの章で、『私は浦粕から逃げ出した。その土地の生活にも飽きたがそれ以上にこんな田舎にいてはだめだ、ということを悟ったからである。』
ぶらりと浦安にスケッチに出かけ風景が気にいったから住みついたという割には、そんなことを書いている。
でも8年後に再訪、さらに30年後の再々訪の物語を通し、あの時代、ほんの数年住み着いた主人公と、その土地で生きる人々との関係はいったい何だったのか、長い年月をかけて主人公に考えさせているのも、とても興味深かった。
そしてここに行きたくなかった理由もおかしい。
それは小説のネタにしているからだ。登場人物に会いたくないからだ。
山本周五郎やはり、大好きな作家です。
この方の作品しか手にしなかったものです
今は手当たり次第に乱読してるけど
どっかで彼の作品と比べてて始末が悪いです
映画も本も刷り込み現象みたいなのがあるみたいなんだけど
そのさんもそんな感じある?
>今は手当たり次第に乱読してるけど
どっかで彼の作品と比べてて始末が悪いです
そうそう、なんかここのあたり似てるとか、思うこともしばしば。
>映画も本も刷り込み現象みたいなのがあるみたいなんだけど・・・
そう思うことも多々あるよね。でもそれは慧さんがたくさん本を読んでいるからですよ、きっと。
私は根本的に原作のほうが好きで 映画になるといつも思う事それは「こんなんじゃない!」
でもたまに原作をこえた映画に出会うこともあります。いい例が「砂の器」これは 映画も、原作もよかった。
ホントそう思う
基本 観てから読むのはOK! 読んでから観るのはNG! です
『砂の器』勿論昔の作品の方よね
海岸を歩くあの場面は今も浮かびます
清張のってあの時代を知ってるか知らないかでリアリティと言うか 重さが違ってくる気がする
段々色んな物がライトになってる割には 人の心は複雑でややこしくなってるかも・・・
話がちょっと逸れちゃったみたいで失礼^^
慧さんとは映画や本の話ができて本当にうれしいです。
なかなかここまで映画の話し合い手になってくれる友はいません。
>基本 観てから読むのはOK! 読んでから観るのはNG! です
まったく同感です。
本に感動したからと映画化されるのを待って、そして見ても「これミスキャスト!」とか、ここの情景はこんなじゃないとか、空想していたこととあまりにもかけ離れることが多いように感じて、がっかりします。
>清張のってあの時代を知ってるか知らないかでリアリティと言うか 重さが違ってくる気がする
段々色んな物がライトになってる割には 人の心は複雑でややこしくなってるかも・・・
あの時代を苦労して生きてきたからこそ、余計に心にずっしりと残るのかもしれません。
あまりにも便利になりすぎて、自分で考えることが少なくなり、五感も薄れてきて、人が人らしくなくなる。
でもこれって年寄りのひがみじゃないよね。
人生残りのほうが少なくなってきて、これからはせめて枯れかかった心に潤いをもたらすような、すばらしい映画や物語に出会いたいものです。
また教えてね。