水無月に一番似合う花。
梅雨入り宣言を聞いて、初めて朝 雨が降った。
紫陽花の花を見て、こう考えた。
いつ頃から、この場所に毎年咲き続けているんだろう。などとえらそうに昨日の漱石続きで「草枕」の書き出しの真似をしてみる。
紫陽花の花越しに隣のはき出しの窓が開き、今は亡きあの春画の杯をくれたおばさんが、手招きして、色々な食べ物をくれた頃を思い出してしまった。
子供の頃から、食べ物に好き嫌いがないのだけが自慢だったが、宮崎出身だと言うおばさんが、時々実家に帰ってお土産にくれたこのあく巻きだけは、好きになれなかった。
「これはね、田舎ではご馳走でね、灰のアクでコトコト、コトコト、3日3晩かけて、餅米を煮て作ってくれたものよ。」
「灰で?」「そう、くど(かまどの事)の灰で煮るのよ。」
子供の時、くどの灰は、お茶碗を洗ったり、お鍋の真っ黒になったのをタワシで洗ったりしていたので、その灰で煮る、というそのことが、なんだか人間の食べるものではないような気がして、そう思って食べると、ますます喉を通らなかった。(時々灰が付いていたし・・)
「お砂糖や、黄な粉をかけて食べるのよ。あまり置くと固くなるから早く食べて、美味しいでしょう?」
ねばねばした竹の皮をはがすと、中から、薄茶色の米の粒が残っているかまぼこ型のお団子が出てくる。
白砂糖をかけて、たべると、確かにすえったような、言われて見ればくどの灰のようなにおいと味がした。
嫌いというとおばさんに悪いから、「美味しいね。」そういうと、喜んで「甥は嫌いだといって食べないんよ。」
とてもじゃないが、美味しいといって食べれるものではなかったが、無理して息を殺して食べた。いい子ぶっていたんだろう。
今朝 ラーフル夫人に紫陽花とこのあくまきの思い出について話したら、「あれは鹿児島が本場よ、嫌いよ、美味しくないよね。今度買ってきてあげようか?」
そういった。
ラーフル背の君の出身は鹿児島だから・・
なんだか話のついでに思い出した「あくまき」だが、 無性に食べてみたくなった、懐かしい、今なら食べれそうな気がするが・・
******
夏の闇・・(新潮文庫)ー 開高健著を読む。
読むきっかけは、週刊新潮に小池真理子がこれぞ名作中の名作と紹介していたので、読んでみる気になった。(アマゾンで購入)
開高健の文章は週刊誌にお魚の「イトウ」を釣るまでのエッセイを書いていたのを以前読んだくらいで、正式の本は初めてだった。
そこがどこなのか舞台は定かでない。登場人物も「私」というジャーナリストと、そこに転がり込んでくる「女」だけ。
「私」はベトナム戦争取材の極限の状態から離れ、普通の生活に戻ろうとするが戻れない、直ぐに何もかもに"倦(あぐ)んで"しまう。
そして、「女」と暑い夏の間、川のほとりに立つ、ナンキン虫の出るような薄汚い学生下宿で、共棲生活を始める。
二人は 食べて、飲んで、まぐわって、語り合い、罵り合い、涙をこぼし、笑い、また語り、また涙し、攻撃し続けて、まぐわう。
鬱気味に引きこもって、太り続ける「私」の怠惰な生活が事細かく書かれている。
確かにこのストーリーは10年ぶりにあった「女」との愛の生活を描いた物だが、「私」の「心の闇」を書いた物であると思う。
だから かつて命を落としかけたベトナム戦争で、戦況が大きく動いたことを知った主人公は、再度のベトナム行きを決意するのだ。そこにこそ自分の存在意義があるかのように・・・
この話とは関係ないけど、「心の闇」は昨日書いた、畠山鈴香容疑者も、この前の我が子を5人も殺した、母親(騒音おばさんに似ている)も動機がわかりにくいと言うことで、この言葉が(心の闇という)つかわれているが。
心の闇とはなんなのか、決して裕福ではなかったけれど、一応衣食住足りていた私には、理解出来ない言葉のようだな。
雨 後曇り 夕方晴れ 25℃
梅雨入り宣言を聞いて、初めて朝 雨が降った。
紫陽花の花を見て、こう考えた。
いつ頃から、この場所に毎年咲き続けているんだろう。などとえらそうに昨日の漱石続きで「草枕」の書き出しの真似をしてみる。
紫陽花の花越しに隣のはき出しの窓が開き、今は亡きあの春画の杯をくれたおばさんが、手招きして、色々な食べ物をくれた頃を思い出してしまった。
子供の頃から、食べ物に好き嫌いがないのだけが自慢だったが、宮崎出身だと言うおばさんが、時々実家に帰ってお土産にくれたこのあく巻きだけは、好きになれなかった。
「これはね、田舎ではご馳走でね、灰のアクでコトコト、コトコト、3日3晩かけて、餅米を煮て作ってくれたものよ。」
「灰で?」「そう、くど(かまどの事)の灰で煮るのよ。」
子供の時、くどの灰は、お茶碗を洗ったり、お鍋の真っ黒になったのをタワシで洗ったりしていたので、その灰で煮る、というそのことが、なんだか人間の食べるものではないような気がして、そう思って食べると、ますます喉を通らなかった。(時々灰が付いていたし・・)
「お砂糖や、黄な粉をかけて食べるのよ。あまり置くと固くなるから早く食べて、美味しいでしょう?」
ねばねばした竹の皮をはがすと、中から、薄茶色の米の粒が残っているかまぼこ型のお団子が出てくる。
白砂糖をかけて、たべると、確かにすえったような、言われて見ればくどの灰のようなにおいと味がした。
嫌いというとおばさんに悪いから、「美味しいね。」そういうと、喜んで「甥は嫌いだといって食べないんよ。」
とてもじゃないが、美味しいといって食べれるものではなかったが、無理して息を殺して食べた。いい子ぶっていたんだろう。
今朝 ラーフル夫人に紫陽花とこのあくまきの思い出について話したら、「あれは鹿児島が本場よ、嫌いよ、美味しくないよね。今度買ってきてあげようか?」
そういった。
ラーフル背の君の出身は鹿児島だから・・
なんだか話のついでに思い出した「あくまき」だが、 無性に食べてみたくなった、懐かしい、今なら食べれそうな気がするが・・
******
夏の闇・・(新潮文庫)ー 開高健著を読む。
読むきっかけは、週刊新潮に小池真理子がこれぞ名作中の名作と紹介していたので、読んでみる気になった。(アマゾンで購入)
開高健の文章は週刊誌にお魚の「イトウ」を釣るまでのエッセイを書いていたのを以前読んだくらいで、正式の本は初めてだった。
そこがどこなのか舞台は定かでない。登場人物も「私」というジャーナリストと、そこに転がり込んでくる「女」だけ。
「私」はベトナム戦争取材の極限の状態から離れ、普通の生活に戻ろうとするが戻れない、直ぐに何もかもに"倦(あぐ)んで"しまう。
そして、「女」と暑い夏の間、川のほとりに立つ、ナンキン虫の出るような薄汚い学生下宿で、共棲生活を始める。
二人は 食べて、飲んで、まぐわって、語り合い、罵り合い、涙をこぼし、笑い、また語り、また涙し、攻撃し続けて、まぐわう。
鬱気味に引きこもって、太り続ける「私」の怠惰な生活が事細かく書かれている。
確かにこのストーリーは10年ぶりにあった「女」との愛の生活を描いた物だが、「私」の「心の闇」を書いた物であると思う。
だから かつて命を落としかけたベトナム戦争で、戦況が大きく動いたことを知った主人公は、再度のベトナム行きを決意するのだ。そこにこそ自分の存在意義があるかのように・・・
この話とは関係ないけど、「心の闇」は昨日書いた、畠山鈴香容疑者も、この前の我が子を5人も殺した、母親(騒音おばさんに似ている)も動機がわかりにくいと言うことで、この言葉が(心の闇という)つかわれているが。
心の闇とはなんなのか、決して裕福ではなかったけれど、一応衣食住足りていた私には、理解出来ない言葉のようだな。
雨 後曇り 夕方晴れ 25℃
それにしても作るのにとっても手間隙かかるんだね びっくり こんな大変な思いして
なんであんなに○○なもの作るのかしら・・・ご苦労様だよね
貴重な保存食だったのかしら・・・
花で季節を感じられる日本て良いですね。
いかに名物とはいえ、美味しくないよね。
でも、田舎の保存食の生活の知恵だったんでしょうね。
別に灰なんかで煮詰めなくても、お味噌か、酒かすで煮詰めたら、美味しく保存できるのではないかしらね。
提案してみようか?
綺麗です。
でも最近カタツムリがひっいてないように思うけど、絶滅したのかしら・・
太平洋側は雨が多いみたいだけど、ここらは梅雨入りしてから、晴れが多いよね。