<千貫石温泉(1) 岩手・金ヶ崎>
浴槽脇まで進み、ちょっと重みのある温泉でたっぷり掛け湯すると、滑りこむように身体を先客たちの隙間の空間の湯に沈めた。
「思ったとおり、なかなかのいい湯だ・・・」
いい温泉にどっぷり浸かると、頭のなかがスッカラカンの空っぽになる。(誰だ! 温泉関係なく、いつもだろなんていうヤツは)
次いで、呼吸や皮膚から浸透してくる湯がもたらす満足感が滲むように身体にじわじわと湧きだし、とめどなく増幅されて頭も心もいっぱいに満たされる。書くと長いが、温泉に慣れきった身体では瞬時のことだ。
あー、ごくらく、極楽・・・ふふふ。思わず満面に笑みを浮かべてしまう。
どうみても薄気味の悪い笑みを、両の手で湯を掬って、顎先から後頭部まで軽く撫でこするようにして誤魔化す。
浴室のタイル床は浴槽から溢れ出る温泉の泉質のせいで、いかにも滑りそうにぬらぬらと濡れていて歩くのにそこそこの慎重さを要するほどだ。
泉質「ナトリウム/炭酸水素塩/塩化物泉低張性弱アルカリ性高温泉」の長たらしい成分の、美肌に効く“アルカリ”の部分が滑らせるのだ。
ここは、毎分680リットル湧き出る湯量豊富な天然温泉100%の掛け流しが自慢なのである。
「千貫石(せんがんいし)温泉」とはちょっと変わった名称だが、こういう一風へんてこな温泉名に意外と当たりが多い。たとえば百目鬼温泉とか。
実は名前の由来は、近くにある「千貫石溜池」からきている。
天和二年(1682年)仙台藩主・伊達綱村の命により、普請奉行は水沢領主・伊達宗景が胆沢郡相去村六原の灌漑用水源として着工した。
初めの三年間は毎年大破したので「おいし」という若い娘を銭千貫で買い、牛とともに人柱にしたという悲しい伝説が残り、ためにこの溜池は「千貫で買ったおいし」から命名されたと伝わる。
千貫石とは、重さ千貫の“石”ではなく、銭千貫で買われた娘“おいし”だったのか。“へんてこ”とかいって申し訳ない。
「千貫石温泉 湯元東館」の入口前に飲泉所風なものがある。しかし経験上、コップが設置されていないところでの飲泉はしないほうがいいとしたものである。
飲泉所横の道場看板みたいなのに「アテルイの里温泉郷」と書いてあった。
目を凝らせば、『アテルイとは、古代郷土の英雄アテルイ(阿弖流為)』のことだそうで、
『奈良時代(8,9世紀)古代大和朝廷は、いまだ平定できない東北地方に住む人々を「エミシ(蝦夷)」と呼び、その豊かな自然、稔り、黄金を支配下に入れようと侵略してきました。水も陸も豊かな土地と言われた胆沢地方では、村落ごとに平和な暮らしが営まれていましたが、これを侵略してくる朝廷軍に対してエミシ連合軍のリーダーとして統率して活躍したのがアテルイです。
延暦8年(西暦789年)現在の水沢周辺の戦いでは、約5万の朝廷軍をわずかの兵で打ち破ったとされています。』
と書いてあった。
なお調べてみたら、延暦20年征夷が終結した翌年にアテルイ(大墓公阿弖流為=たものきみあてるい)は降伏、族長の一人である盤具公母禮とともに、坂上田村麻呂に従い平安京に向かい、後に処刑されたそうだ。
(ふーん、そうなのか)
恥かしながら、坂上田村麻呂という名前くらいしか知らない。歴史はといえば、斎藤道三がでてくる安土桃山時代くらいからしか知らぬわたしにとって、とても勉強になった。
さてと、混んでいる大浴場を切りあげ、手早く浴衣を羽織って別の場所にある露天風呂に移動した。
先客数名で埋まっている洗い場と小さな内風呂、そしてその奥にある露天風呂を覗く。
(しめしめ、丁度誰もいないぞ)
大浴場で掛け湯は済ませてあるということで、真っ直ぐ露天風呂をいただくことにするか。
― 続く ―
→「百目鬼温泉」の記事はこちら
浴槽脇まで進み、ちょっと重みのある温泉でたっぷり掛け湯すると、滑りこむように身体を先客たちの隙間の空間の湯に沈めた。
「思ったとおり、なかなかのいい湯だ・・・」
いい温泉にどっぷり浸かると、頭のなかがスッカラカンの空っぽになる。(誰だ! 温泉関係なく、いつもだろなんていうヤツは)
次いで、呼吸や皮膚から浸透してくる湯がもたらす満足感が滲むように身体にじわじわと湧きだし、とめどなく増幅されて頭も心もいっぱいに満たされる。書くと長いが、温泉に慣れきった身体では瞬時のことだ。
あー、ごくらく、極楽・・・ふふふ。思わず満面に笑みを浮かべてしまう。
どうみても薄気味の悪い笑みを、両の手で湯を掬って、顎先から後頭部まで軽く撫でこするようにして誤魔化す。
浴室のタイル床は浴槽から溢れ出る温泉の泉質のせいで、いかにも滑りそうにぬらぬらと濡れていて歩くのにそこそこの慎重さを要するほどだ。
泉質「ナトリウム/炭酸水素塩/塩化物泉低張性弱アルカリ性高温泉」の長たらしい成分の、美肌に効く“アルカリ”の部分が滑らせるのだ。
ここは、毎分680リットル湧き出る湯量豊富な天然温泉100%の掛け流しが自慢なのである。
「千貫石(せんがんいし)温泉」とはちょっと変わった名称だが、こういう一風へんてこな温泉名に意外と当たりが多い。たとえば百目鬼温泉とか。
実は名前の由来は、近くにある「千貫石溜池」からきている。
天和二年(1682年)仙台藩主・伊達綱村の命により、普請奉行は水沢領主・伊達宗景が胆沢郡相去村六原の灌漑用水源として着工した。
初めの三年間は毎年大破したので「おいし」という若い娘を銭千貫で買い、牛とともに人柱にしたという悲しい伝説が残り、ためにこの溜池は「千貫で買ったおいし」から命名されたと伝わる。
千貫石とは、重さ千貫の“石”ではなく、銭千貫で買われた娘“おいし”だったのか。“へんてこ”とかいって申し訳ない。
「千貫石温泉 湯元東館」の入口前に飲泉所風なものがある。しかし経験上、コップが設置されていないところでの飲泉はしないほうがいいとしたものである。
飲泉所横の道場看板みたいなのに「アテルイの里温泉郷」と書いてあった。
目を凝らせば、『アテルイとは、古代郷土の英雄アテルイ(阿弖流為)』のことだそうで、
『奈良時代(8,9世紀)古代大和朝廷は、いまだ平定できない東北地方に住む人々を「エミシ(蝦夷)」と呼び、その豊かな自然、稔り、黄金を支配下に入れようと侵略してきました。水も陸も豊かな土地と言われた胆沢地方では、村落ごとに平和な暮らしが営まれていましたが、これを侵略してくる朝廷軍に対してエミシ連合軍のリーダーとして統率して活躍したのがアテルイです。
延暦8年(西暦789年)現在の水沢周辺の戦いでは、約5万の朝廷軍をわずかの兵で打ち破ったとされています。』
と書いてあった。
なお調べてみたら、延暦20年征夷が終結した翌年にアテルイ(大墓公阿弖流為=たものきみあてるい)は降伏、族長の一人である盤具公母禮とともに、坂上田村麻呂に従い平安京に向かい、後に処刑されたそうだ。
(ふーん、そうなのか)
恥かしながら、坂上田村麻呂という名前くらいしか知らない。歴史はといえば、斎藤道三がでてくる安土桃山時代くらいからしか知らぬわたしにとって、とても勉強になった。
さてと、混んでいる大浴場を切りあげ、手早く浴衣を羽織って別の場所にある露天風呂に移動した。
先客数名で埋まっている洗い場と小さな内風呂、そしてその奥にある露天風呂を覗く。
(しめしめ、丁度誰もいないぞ)
大浴場で掛け湯は済ませてあるということで、真っ直ぐ露天風呂をいただくことにするか。
― 続く ―
→「百目鬼温泉」の記事はこちら
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