呂律(ろれつ)が回らないことはこのごろよくある。舌が正常の動作を拒否している。落ち着けと言い渡して、何度か言い直してみる。慌ててものを言いたがるクセもある。
いやまて、これは脳障害の先触れなのかもしれないぞ。其処を心配すると、ぞぞっとする。
呂律(ろれつ)が回らないことはこのごろよくある。舌が正常の動作を拒否している。落ち着けと言い渡して、何度か言い直してみる。慌ててものを言いたがるクセもある。
いやまて、これは脳障害の先触れなのかもしれないぞ。其処を心配すると、ぞぞっとする。
それがないと暮らしが出来ない。成り立たない。
お金が返ってこないと商売が成り立たない。
お金は労働の代償である。償いの変種である。わたしのために働いて下さったその労働へのお礼である。
こうしてお金が人と人との間を流通して、それで経済が活性化している。そういうところがある。
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でも、そこに介在している秋の秋刀魚は、もともとはただである。猟師さんは海にお金を投げて払ってはいない。秋刀魚は売られてお金に早変わりするが、秋刀魚自身はビタ1文ももらっていない。欲しがらない。己を食べさせて、相手に命を繋がせて、それで終わって、<おれはお前のために自己犠牲をしたんだぞ>の大きな顔もしない。そういう仕組みを甘受して、不審な目つきもしない。
無償。償いを求めない。
わたしがあなたに利益を与えたのだから、あなたもわたしにそれを、それ相当分を返してくるべきである、とするのなら、それは無償ではない。有償である。有償は毒物である。
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<してやったから、して返せ>の要求が忍び込む。
ものをもらっても、ものをあげても、それが忍び込んでいる。下心がある。
「ご恩を返せ」「恩知らずめ」などと切り込んだり、切り込まれたりする。紐付き助成は尾鰭が長い。尾鰭が腐って異臭を放つ。
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空気は無償である。吸ったからあとでそれ以上のものを返せ、とは言ってこない。求めて来ない。よかったなあと思う。有償の空気なんて吸えまい。満月も無償である。星々の輝きも、澄んだ秋の大空も無償である。料金徴収はない。ただである。母親が幼児に吸わせる乳も、父親の家族愛も、ただで、無償である。原理原則無償である。
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信仰も無償である。大いなる慈悲慈愛の一方向通行である。安心で終わっていい。
昨夜NHK9時から「ドギュメント宗教2世」特集番組を見た。見ていて、宗教を親から押しつけられた新興宗教2世たちの苦しみ悲しみやるせなさが伝わって来て、息苦しくなって、途中で切った。宗教について、信仰について考えさせられた。
判断ができない幼い時期に強引に押しつけられている信仰を、生涯重い負担にして背負っている、背負わされている人たちがいることを知った。呻き声を聴いた。
宗教は自由でなければならない。信仰は自由裁量でなければならない。強制されるものではない。強制させることではない。あらためてそう思った。
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「信仰の対象とわたし」との二人の会話であっていいと思う。「こころとこころの学び合い」であっていいと思う。巨大中間媒体組織、拡大組織団体を、強制介入を、会員登録を、強制納税献金制度を、わたしは疑問に思う。鍵を掛けて逃げ出せなくすると、そこが地獄になってしまう。宗教は人の心を安んじるものであって、けっして恐怖させるものであってはならないはずである。
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わたしの仏教理解は、無所属である。一生涯を通してゆっくりゆっくり探求し続けて行きたいと思っている。
身勝手な推測ばかりしている。そして、あろうことか、それでいいとすら思っている。推測をして遊んでいるくらいが、ちょうどいいのだ、とも。
すべてが断定できることだったら、随分この世は堅苦しくぎすぎすしていることだろう。なんでも、遊びがなくてはならない。Aだ、B断定断定2両端のあいだに、ゆるい、長々しい、悠長極まる自由裁量空間があった方が、豊かだ。
われわれは何処から来て何処へ行くのか。何のためにここにいるのか。われわれは使命を持っているのか。何を以て充足をしていいのか。いのちは永遠であるのか。などなど、突きつけられる命題は数限りない。
そそてその命題に対するアンサーもまた数限りなく存在している。アンサーまで行き着けない場合は、推測で代用を図る。それもまた許されているのではないか。こうして常に身勝手にケリをつけて、そうしてケリをつけたフリをしている。
部屋の窓が開いていると北風が吹き込んできて寒い。あわてて窓を閉めに走る。気温22℃。午後2時をちょっと過ぎている。
市役所前の広場で開催されている国際フェスタ(正式名称は失念しました)に行って来ました。出店のテントがたくさん立っていました。たくさんの外国人の方がお出ででした。主に東南アジアの国々の。踊りや歌も披露されていました。ベトナム料理のランチを買って食べました。これほどたくさんの外国人が住んでおられるのなら、まさに我が郷土は国際都市です。留学生の方々もいらっしゃるようでした。時代が急速に変化を遂げているようでした。
如来無辺誓願事
如来は無辺である。誓ってお事(つか)えせんことを願う。
仏教経典「五誓願」より。
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如来様は仏様の別称。真如界から、衆生が苦しむこの娑婆世界に来て、わたしたちの救済活動に明け暮れておられる方である。
その如来様が無辺にいらっしゃる。何処にでもいらっしゃる。仏像になって一箇所に留まっておられずに、宇宙中にも充満しておられる。あらゆるものに変幻自在して、わたしたちにお仕えして下さっている。それを知ることになれば、こっちだってもうお仕えしないわけには行かなくなるが、われわれが頑迷固陋である。誓願を起こさないとそれができない。
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でも、それでいいことになっている。如来様の方からわたしたちにお仕えされて、傅いておられるばかりで、それを他者にまで要求されることはない。要求されたらもうおしまいである。
安心していい。怠けていていい。普段通りにしていていい。素知らぬ顔をしていてもいい。
優しくしておけばよかった。もっと優しくしておけばよかった。臍をかむ。
それがそうできない。優しくすることに衒(てら)いがある。で、普通か、普通以下になって、終わる。
途中に別れが来る。一人になる。思い出がちょくちょく障子戸を開けて、顔を出す。
障子戸を開けた顔が、いつも優しく微笑んでいる。
おれは、どうして優しくできなかったのだろう?
後悔だけがつきまとって来て、やるせない。
生まれて来たから死ぬ。生まれて来たことが嬉しいことなら、死ぬことだって嬉しいことであるにちがいない。生死は直線上のできごと。片手オチはない。両端とも両満足のはずである。
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A地点に生まれて、A地点を去って行くと見せかけて、B地点に生まれているのだ、きっと。だから死もまた誕生なのだ。嬉しがっていいはずだ。でも、それがこの目に見えないから、不安でしようがないのだけれど。