おれには活動制限がついている。それを越えたらストップしてしまう。安物ぜんまいロボットみたいなもんだ。ぎぎぎぎぎと止まってしまって動かなくなる。
おれには活動制限がついている。それを越えたらストップしてしまう。安物ぜんまいロボットみたいなもんだ。ぎぎぎぎぎと止まってしまって動かなくなる。
人生の、総おさらいの時期に入って来ている。
するりするりと通り抜けてきて、ちいとも理解をせず、味わうこともなかったことどもが、そこで立ち止まらせられて、立ち往生をしているに違いない。
で、そこへ逆流をして戻って来て、「すまなかったなあ」「すまなかったなあ」を言って、ぺこんとお辞儀をして、詫びる。
「そんなこととも知らず、おれは無理解をして過ぎ去っていた。すまなかった。あなたの善意がわたしには受け入れられていなかった」と詫びる。
ムシが白菜をつぶしてしまった。ようやっと巻き始めた畑の白菜が、一日でジュッと萎んでクチャクチャになってしまった。悔しい。シワシワになったら、捨てるしかない。
一株じゃない。1列に3箇の白菜が倒されている。
ネキリムシの仕業かもしれない。当て推量だが。
ネキリムシは夜蛾(やが)の総称。ぶよぶよのでかい虫。夜に野菜の茎を食べる。悪戯好き。根元の真上の茎を切り取られるともう野菜は立ち上がれない。
畑の野菜といえど百難百災あり。百難百災を乗り越えて成長する野菜に、幸あれ!
きわめてきわめてきわめて、わがまま者である、わたしは。
わたしの手にすら負えないくらいである。
こうなればこうするの、当たり前の、決まった行動をしない。でたらめである。
いつもふらふらふらふらして、あっちの思想に寄りかかりこっちの主義にもたれ、貞節がない。
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であれば、ブランコを漕いで、一人で居るしかないではないか。
人と、協調が出来ない。人と会えば、迷惑をかけるのが見えている。相槌が打てない。ぷいとして去ってしまう。不埒だ。困った男だ。年を取っていよいよこの傾向が昂じている。
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よくぞまあ、よくぞまあ、ワイフ殿はこんなふしだらに長年をお付き合いくだされたワイ、と思う。ふっとすまなく思う。
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わわあわわあ、今朝はどうだ、祇園山上空に雲がない。混じりっけなしの真っ青だ。秋が澄み切ってどこまでもどこまでも広がっている。
移植した高菜の苗がようやく畑に根付いたようだ。シャンとして立ち上がった。青が濃くなった。凜々しい若者が列ぶ1列2列3列。
わたしは、<すんすん伸び上がる畑のイキモノたち>を眺めている。自然界の元気が嬉しい。そういう感情に支配される。
午前7時、微量の日射しを受けてあたたまっている畑を見回った。はやくも露が青葉に落ちて濡れている。
呂律(ろれつ)が回らないことはこのごろよくある。舌が正常の動作を拒否している。落ち着けと言い渡して、何度か言い直してみる。慌ててものを言いたがるクセもある。
いやまて、これは脳障害の先触れなのかもしれないぞ。其処を心配すると、ぞぞっとする。
それがないと暮らしが出来ない。成り立たない。
お金が返ってこないと商売が成り立たない。
お金は労働の代償である。償いの変種である。わたしのために働いて下さったその労働へのお礼である。
こうしてお金が人と人との間を流通して、それで経済が活性化している。そういうところがある。
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でも、そこに介在している秋の秋刀魚は、もともとはただである。猟師さんは海にお金を投げて払ってはいない。秋刀魚は売られてお金に早変わりするが、秋刀魚自身はビタ1文ももらっていない。欲しがらない。己を食べさせて、相手に命を繋がせて、それで終わって、<おれはお前のために自己犠牲をしたんだぞ>の大きな顔もしない。そういう仕組みを甘受して、不審な目つきもしない。
無償。償いを求めない。
わたしがあなたに利益を与えたのだから、あなたもわたしにそれを、それ相当分を返してくるべきである、とするのなら、それは無償ではない。有償である。有償は毒物である。
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<してやったから、して返せ>の要求が忍び込む。
ものをもらっても、ものをあげても、それが忍び込んでいる。下心がある。
「ご恩を返せ」「恩知らずめ」などと切り込んだり、切り込まれたりする。紐付き助成は尾鰭が長い。尾鰭が腐って異臭を放つ。
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空気は無償である。吸ったからあとでそれ以上のものを返せ、とは言ってこない。求めて来ない。よかったなあと思う。有償の空気なんて吸えまい。満月も無償である。星々の輝きも、澄んだ秋の大空も無償である。料金徴収はない。ただである。母親が幼児に吸わせる乳も、父親の家族愛も、ただで、無償である。原理原則無償である。
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信仰も無償である。大いなる慈悲慈愛の一方向通行である。安心で終わっていい。
昨夜NHK9時から「ドギュメント宗教2世」特集番組を見た。見ていて、宗教を親から押しつけられた新興宗教2世たちの苦しみ悲しみやるせなさが伝わって来て、息苦しくなって、途中で切った。宗教について、信仰について考えさせられた。
判断ができない幼い時期に強引に押しつけられている信仰を、生涯重い負担にして背負っている、背負わされている人たちがいることを知った。呻き声を聴いた。
宗教は自由でなければならない。信仰は自由裁量でなければならない。強制されるものではない。強制させることではない。あらためてそう思った。
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「信仰の対象とわたし」との二人の会話であっていいと思う。「こころとこころの学び合い」であっていいと思う。巨大中間媒体組織、拡大組織団体を、強制介入を、会員登録を、強制納税献金制度を、わたしは疑問に思う。鍵を掛けて逃げ出せなくすると、そこが地獄になってしまう。宗教は人の心を安んじるものであって、けっして恐怖させるものであってはならないはずである。
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わたしの仏教理解は、無所属である。一生涯を通してゆっくりゆっくり探求し続けて行きたいと思っている。