わたしの10行詩。これから書く。
☆
「誤嚥」
わたしの朝は納豆ご飯
炊き立てのご飯に挽き割り納豆
味噌汁は我が家の畑の白菜
残り5分の1になったところで
お茶をついで茶漬けにした
さらさらさらと掻き込んだ
誤嚥のせいで噎せ込んでしまった
ご飯粒がテーブルを汚してしまった
こうしてわたしの一日が始まった
いつもの平凡なわたしの一日が
☆
平凡の隣に非平凡がある。足一歩跨げば非平凡。いつ何が起こるかは分からない。今朝は誤嚥で一日の幕が開いた。
わたしの10行詩。これから書く。
☆
「誤嚥」
わたしの朝は納豆ご飯
炊き立てのご飯に挽き割り納豆
味噌汁は我が家の畑の白菜
残り5分の1になったところで
お茶をついで茶漬けにした
さらさらさらと掻き込んだ
誤嚥のせいで噎せ込んでしまった
ご飯粒がテーブルを汚してしまった
こうしてわたしの一日が始まった
いつもの平凡なわたしの一日が
☆
平凡の隣に非平凡がある。足一歩跨げば非平凡。いつ何が起こるかは分からない。今朝は誤嚥で一日の幕が開いた。
日頃、威張りに威張っている狐さんが熱を出しました。威張っていても熱を出すのです。熱が38℃近くになりました。もう立っていられません。狐さんはバナナの葉っぱをベッドにして、ごろんと横になりました。そのうち寒気が襲って来ました。狐さんは、やっぱりバナナの葉っぱを掻き集めてきて、しっかりとくるまりました。汗を掻いたのでしょう、葉っぱの間からうっすらと湯気が出ています。白ウサギさんがたまたまそこを通りかかりました。苦しんでいる狐さんは、しかし、日頃は大声を出して暴力を振るっています。近くへ寄って行ったらまた暴力を振るわれるかも知れません。通り過ぎようとしましたが、踏みとどまりました。狐さんが唸りました。それから小さくお母さんを呼びました。そうだったのか、乱暴者の狐さんにもやっぱりやさしいお母さんから生まれたんだ、とウサギさんは思いました。そして、お母さんになりすまして、谷川から冷たい水を汲んできて、竹筒から大きな赤い口に飲ませて上げました。眠ったようにしていた狐さんが、もう一度小さくお母さんの名を呼びました。
鳥さんの中にもドクターがいます。ナースもいます。いなければ困るからです。集団の中に、そういう役目を引き受ける鳥さんがいなければ、集団は暮らして行けません。みんな元気なときばかりではないからです。病むときも来ます。
魚さんの中にもドクターがいます。ナースもいます。いなければ困るからです。集団の中にそういう役目を引き受ける魚さんがいなければ、集団は暮らして行けません。みんな元気なときばかりではないからです。病むときも来ます。
虫さんの中にもドクターがいます。ナースもいます。居なければ困るからです。集団の中にそういう役目を引き受ける虫さんがいなければ、集団は暮らして行けません。みんな元気なときばかりではないからです。病むときも来ます。
獣さんの中にもドクターがいます。ナースもいます。居なければ困るからです。集団の中にそういう役目を引き受ける獣さんがいなければ、集団は暮らして行けません。みんな元気なときばかりではないからです。病むときも来ます。
鳥さんであっても魚さんであっても、虫さんであっても獣さんであっても、ドクターとナースはやっぱり白衣を着ています。首筋から胸元だけの短い白衣ですから見落としてしまうでしょう。診察時間は午前9時から12時まで。午後からは訪問治療に充てられています。
詩は、病んでいる人へのリンゲル注射。注射液の中身は元気ホルモン。100000種類あるなかの、その中のやや控え目な、数種類の元気ホルモンを読者の胸に注入してくれる。即効性はない。漢方薬のようにしだいしだいに効き目が現れる。やがて元気になれる。
病んでいないときには詩が書けない。人は病んで暮らしているが、病んでいる己を自覚しない間は、詩が生まれ出ない。
病んでいない読者に注射しても、当然、効き目はない。彼らは、その必要も見出さない。
☆
お昼から、そんなこと、こんなことを考えていた。他愛もなく。詩はまだ一行も書けない。
今し方、ふいにNさんが玄関に立たれた。差し入れを届けて下さった。正月明けてからすぐに入院生活を送った、そのお見舞いに。かたじけない。
しばらくお話ができた。励ましていただいた。力づけていただいた。
差し入れがおいしそう。今夜はこれで飲めるぞ。嬉しい。元気を出そう。
僕は、しかし、恩知らず。礼儀知らず。返礼ができない。そうであってはいけないのだが。
山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば 古今集 源宗干朝臣
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山里は年中寂しい。その中でも冬がいっそう寂しいものだなあ。野辺の草も枯れて、訪れて来てほしい人も来なくなって、遠く離れてしまうと、なおさらに。
係り結びと倒置法が用いられている。「かれる」は掛詞。「枯れる」と「離(か)れる」の掛詞。全体は、恋の歌だろうか。
草が枯れると寂しくなる。山里まで人が通って来なくなると寂しくなる。山里の冬を過ごすのは辛いものだ。あなたが会いに来てくださると、状況は一変するに違いないけれど。
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山里に住むこのお爺さんも冬は寂しいので、この歌が頭を過った。老いても人恋しいのは変わらない。隣に空き地がある。広い畑だ。耕す人が居ないので、セイタカアワダチソウが枯れたままになっている。
雑文をいろいろ書いて、詩に行き着こうとしているのだが、詩もまた同じ間隔を保って遠離って行くようだ。一篇の詩が欲しい。
詩が出来上がったとして、では、どうするのだ。ゴールドに化けるのか、それが。化けない。宝石になって光り輝くか。その可能性はゼロに近い。誰かの胸に届いて、その人を元気づけることがあるか。ありそうには思えない。
では、ただ虚しいだけのマスタベーションではないか。うん。そうかもしれない。
死んだ後で、透明人間になって、その詩を読みに来る。そして詩が人生の折々に描き出した風景を見て、人間を生きていた頃の思い出に耽る。そのささやかな楽しみが、もしかしたら、残されているのかもしれない。
外に出た。ホースで水撒きをした。玄関先の鉢植え、ブーゲンビリアが枯れそうになっている。枯れてしまったのかも知れない。
ともかく1月3日から13日までは水遣りをしていない。家族全員が病院暮らしだったからしようがない。
このブーゲンビリアはその色が珍しい。なかなか見かけたことがない。高価で買い求めた。沖縄旅行をしたときにも、この種の色をしたのにはお目に掛からなかった。
枯れないように、ずっと水遣りを欠かさず大事にして可愛がってきた。訪れてくる人にも見せて自慢にしてきた。冬場に入ってからも花の勢いは衰えなかった。鮮やかだった。
枯れてくれるなよ。生き残ってくれよ。祈る気持ちだ。しぶとく、根っこからまた新しい芽が出て来てくれるといいのだが。
この老人は餅好き。朝食は餅だった。
正月餅の鏡餅は、細かく切って水瓶に漬けてある。これを1個掬い上げて、お椀に移し、水を張り、電子レンジであたためる。
餅はやわらかくなる。椀からこれを引き上げて大皿に下ろす。
ここに黄な粉をまぶす。お砂糖と塩がちょうどいい按配に加えてある。
やわらかになった餅が黄な粉にまみれる。これを箸に掬って口に放り込む。あやうく喉に詰まりそうになる。お爺さん、急ぐな慌てるな。生姜の味噌漬けを啄む。
左手で白菜の味噌汁を飲む。白菜は我が家の畑から収穫して来たばかり。おいしい。最後は湯飲みの緑茶を飲む。朝食が終わる。
オーン、アビラフーン、カーン。
オーン、アビラフーン、カーン。
オーン、アビラフーン、カーン。
これは大日如来の呪文。マントラ。陀羅尼。
両手の指で印を結び、背筋を正し息を調え、長々と唱える。
唱えている間は、わたしは大日如来の化身。変化(へんげ)身。姿を取った遣唐使。地上に降りた天使、み遣い。中央大日大聖不動明王身。
大日如来であれば、どう見えているか。それを思ってみる。
わたしのいまの苦しみ悲しみがどう見えているか。それを測ってみる。
オーン、アビラフーン、カーン。
オーン、アビラフーン、カーン。
オーン、アビラフーン、カーン。
見えているだけに過ぎないのではないか。一切は空である。実態は幻。幻影。
いただいた命を、幻影に踊らされているな。虚妄の執着を放て。不実の執着を離れよ。
それもこれも、悲しみも苦しみも、時の推移とともに移り変わって、やがてそこは落ちていた影だけになる。