ふっと詩が生まれないかなあ。短い詩でいい。5行くらいの。
うううん、うううん、うううん。唸る。
<唸れば詩が生まれる>というものでもないけれど。唸る。
10分経過。30分経過。1時間経過。
でも、詩は生まれない。難産だなあ。もともと無精卵かも知れないぞ。
ふっと詩が生まれないかなあ。短い詩でいい。5行くらいの。
うううん、うううん、うううん。唸る。
<唸れば詩が生まれる>というものでもないけれど。唸る。
10分経過。30分経過。1時間経過。
でも、詩は生まれない。難産だなあ。もともと無精卵かも知れないぞ。
パセリを、家族の者は食べない。僕は食べる。大好きだというわけではないが、食べる。そのままムシャムシャと。
畑に、だから、1株だけ植えている。それが勢いよく生育している。こんもりとしている。
それを摘んで来た。今夜、食膳に載せよう。パセリは香りが強い。個性がある。
今夜はめずらしく鯉料理のようだ。味噌仕立てで鯉濃になるだろう。その椀に、刻んだパセリを落とそう。
若い頃、職場の近くに食堂があった。昼休みに食べに行くことがあった。焼き飯に、店主がこのパセリを細かく刻んで、散らせた。
これで喰い馴れた。
あ、そうだったそうだった。ここの食堂に店主の娘さんが働いていた。美貌で、愛想が良くて、看板娘さんだった。独身連中が通い詰めた。
<我慢の時>がある。
我慢の時には我慢をしているしかない。
じっと待つ。
過ぎて行くのを待つ。我慢の時が過ぎて行く時を待つ。
いまはその時。うまく運ばない。
うまく運ばないからと言って、じたばたすると、一層苦しくなる。
であるなら、じたばたしないようにすべきだ。
深く息を吸って静かに長く出す。呼吸をゆっくりにする。
いつか、「転」をも授かるだろう。
冬来たりなば春遠からじ。季節だって動いて行く。
日が翳って来ました。16時を過ぎました。
大相撲初場所9日目の土俵、幕内の取り組みを見ています。
久しぶりです。
お相撲取りさんのおっぱいは、総じて大きいなあ。中には、ブラジャーを付けて出た方がよさそうにしている力士もいるなあ。(そうではない力士もいるけど)
などと僕は不真面目です。
贔屓力士は特にいません。どっちを応援して上げていいか分からなくなります。
18時までは相撲観戦をして時間を潰せます。
☆
力士の名で、「龍」の字が入っている人が多いなあ。龍からスーパーパワーをもらっているのかなあ。
お昼からは、我が家の畑の青首大根を数本抜いて来て、日射しのあふれるお縁側で、切り干し大根作りをしています。
障子を閉め切っていると、ここはサニールームになっているので、気温が20℃近くになります。
大根の皮を剥いて、それを包丁で縦向きに薄く切って、さらにそれを細く短冊形に切りそろえます。
暑くて、上着を脱ぎました。
出来上がったら、今度はそれを3段に分かれている干し網に、投げ込んで列べていきます。
それを窓の外の日当たりに吊しました。列べられた切り干し大根が、お日様の光を吸い込んで、きらきら輝いています。
山里のお爺さんがすることは、まあ、こんなことです。大根と包丁とまな板に遊んでもらいました。
数日干して、できあがったら、お好きな方にお分けします。我が家だけではとても食べきれません。保存食だから、一年中いつ食べてもいいのですが。
日が射してきましたので、我が家の駐車場に行って、草取りをしました。
丸椅子に座して。ひたすら無言で。でも、休み休みしながら。
けっこうストレス解消になりました。外に出ているだけで気分が晴れます。
風はありましたが、我慢ができる範囲でした。お昼のサイレンが鳴って、戻って来ました。
友人は僕の書く詩が分からないと言う。難しくて分からない、と言う。そういう表現はするが、要するに、いい詩ではないということだろう。胸に響いて来ない、というのだろう。
そうだろうと思う。友人の書く詩を理解したいのだが、理解できない。いい詩を読みたいのだが、いい詩になっていない。彼はそう思っている。その通りだろうから、どうしようもない。
もっと研鑽を積まねばならない。分かる詩を書かねばならない。優しい詩を目指さねばならない。
ただし、まずは作者自らの問いに答え得る詩でなければならない。他者に読んで欲しい先品である以前に、己の空腹を満たす作品でなければならない。二つを兼ねるまでの力量がまだこの僕には、ない。
猫もいろいろである。なれなれしく擦り寄って来るのもいるし、しょっちゅう居丈高になっていないと暮らせないのもいる。それで、とどのつまり、それぞれの暮らし方をしている。
人間もそれぞれであるから、それぞれの暮らし方をしている。それぞれがそれぞれに合わせているしかないからだ。威張っている強者(つわもの)もいるし、抗わない戦わないの我が道主義者もいる。
こうでないといけない、などというのはないだろう。それぞれでいいのだろう。他者を罵倒揶揄しないで、互いがそれぞれ持ち合わせた自由を尊重してあげるのがいいだろう。
しかし、ほんとうに救済が必要なときには、手を上げるべきだ。助けを請うべきだ。日本社会も例に漏れず、格差社会の兆候を深めてきている。貧富の違いが際立ってきている。いいことではない。
違いは猫にもある。人間にもある。違っていいところなら違っていいけれども、違ってはならないという部分では、違わない方がいい。いいに決まっている。すくなくとも、幼い者にはひもじい思いをさせてはならない。
猫を眺めながら、そんなことこんなことを考えた。病院から自宅に戻ってきたお爺さんは、暇である。山里は今日も静かだ。やけに静かだ。
10時のコーヒータイムを書斎まで運んで来てもらう。小さなチョコ2個もついている。
威張ってらあ。
といっても、インスタントコーヒーだ。安上がりの。
注文したからだ。たまにこうやって西洋人になりたがる。日本人だから日本茶だっていいのに。
☆
野良着に着替えて外に出ようかな。コーヒーも飲み終わったし。
裏の玉葱畑が草に占領されそうだ。助け船を出すとしようか。
畑に出て行けば、気分もまぎれるだろう。畑の中の見えない泉から、力水が湧き上がってくるだろう。
我が家の飼い猫はAちゃんは臆病猫である。飼い主に似ている。
敵猫の石川五右衛門がいかめしい姿でしばしばやって来る。おどろおどろしき声を立てて来る。
Aちゃんは戦わない。城を明け渡して、すぐに逃げる。すたこらすたこら逃げる。まったくだらしがない。そこもご主人様そっくりだ。
石川五右衛門は城に入ってきてふんぞり返る。そこには食べ残しの餌もある。
あ、飼い猫と行っても、Aちゃんは家の中には入って来れない。
撒き散らす猫の毛が嫌いなご主人様が居るからである。外の濡れ縁がAちゃんのキッチンである。
で、ときどきご主人様も外に出て、Aちゃんを撫でる。Aちゃんはごろんと寝転がって腹を見せる。ご主人様はその腹をまんべんなく撫でてやる。