在家仏教協会の初代理事長加藤辨三郎さんが、<ハワイの仏教徒と語る>「信の風光」の中で、こんなことを述べておられます。座談会です。
「釈迦牟尼仏の見出された法は永遠不変であって、したがって私が短い一生にやれることは、ほんのわずかなものであっても、法は永遠ですから焦ることも、いらだつこともなにもないのです。自分の一生をそれに捧げれば、それは必要にして充分であると・・・」
*
「仏の教え=法は永遠不変である」というところがわたしの胸を打ちます。とても胸を打ちます。これでもう安らげます。
安心ですから「わたしが焦ることもいらだつこともない」。ただ、いまわたしが、仏法のただ中にいるという事実が嬉しいです。
*
どんなに時代が変遷しても、法が永遠に生きている、生きて活動しているので安心です。わたしがうろたえることではありません。
*
「わたしがどんなにつまらない者であっても」
わたしが
どんなにつまらない者であっても
それでいい
それでいい
真理の宇宙が欠けることは
いささかもない
わたしが
どんなに愚か者であっても
宇宙の真理が曲がることは
いささかもない
わたしが
善を為さず悪を為しても
それでダンマの永遠が壊れるということは
いささかもない
うれしい
うれしい
うれしい
彼岸花がまっかに咲き出したこともうれしい
山里に柿の実が色づいてきたこともうれしい
秋の空に鱗雲が広がっていることもうれしい
「釈迦牟尼仏の見出された法は永遠不変であって、したがって私が短い一生にやれることは、ほんのわずかなものであっても、法は永遠ですから焦ることも、いらだつこともなにもないのです。自分の一生をそれに捧げれば、それは必要にして充分であると・・・」
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「仏の教え=法は永遠不変である」というところがわたしの胸を打ちます。とても胸を打ちます。これでもう安らげます。
安心ですから「わたしが焦ることもいらだつこともない」。ただ、いまわたしが、仏法のただ中にいるという事実が嬉しいです。
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どんなに時代が変遷しても、法が永遠に生きている、生きて活動しているので安心です。わたしがうろたえることではありません。
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「わたしがどんなにつまらない者であっても」
わたしが
どんなにつまらない者であっても
それでいい
それでいい
真理の宇宙が欠けることは
いささかもない
わたしが
どんなに愚か者であっても
宇宙の真理が曲がることは
いささかもない
わたしが
善を為さず悪を為しても
それでダンマの永遠が壊れるということは
いささかもない
うれしい
うれしい
うれしい
彼岸花がまっかに咲き出したこともうれしい
山里に柿の実が色づいてきたこともうれしい
秋の空に鱗雲が広がっていることもうれしい
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