手毬唄かなしきことをうつくしく 高浜虚子
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女の子じゃなかったから手毬を突いたことがない。だから手毬唄にどんな歌があるのかあまり知らない。でも、それが島原の子守歌や中国地方の子守歌ふうの歌詞だったら、悲しみが込められている。それをあどけない少女が清らかな澄み切った声をして歌っていると、それだけで情景がうつくしくなってしまう。とすれば手毬唄や子守歌はかなしみを蒸発させてしまう蒸し器のようなものだ。あとには饅頭の湯気が残っている。遊び疲れた少女たちの背中が汗をしていてそこにも湯気が上がっている。
代表的な手毬唄は「毬と殿様」「あんたがたどこさ」がある。それはそんなに悲しい歌詞には思えない。
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だったら、これは手毬唄の歌詞がかなしいのではないのかもしれない。誰かが死んだのかも知れない。家族が貧乏で三度の飯が満足に食べられなくてそれで庭に出て毬を突いているのかも知れない。あるいは兄じゃや姉しゃにこづかれて泣いた後なのかもしれない。いろんな場面が想定されるが、手毬唄を歌って毬突きをしている少女を見ているとどれもが美しいことに思えてしまう。世の中の多くの出来事がこの手毬の情景に包まれて美化されてしまうということがあったのかもしれない。
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この作品は昭和14年の正月に作られている。ちょうど志那事変の最中である。知り合いの兵隊さんが戦死したという報が届いた後だったのかも知れない。そういう現実とは無関係にして遊んでいるこどもたちの無邪気さがただただ美しかく映ったのかもしれない。季語は手毬唄で春か。
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