畑の春菊が次々と花を着けている。黄色い花だ。
人間が生きて暮らしている此処を、「明るい地上の楽園」にしてくれている。
そう思って見ると、それをそうせしめてくれた春菊の花にも手を合わせていたくなる。有り難うを言いたくなる。
風が少し有るのだろう、草丈の高い分、少しだけゆらゆらしている。
蜂の羽音もしている。光があふれている。
畑の春菊が次々と花を着けている。黄色い花だ。
人間が生きて暮らしている此処を、「明るい地上の楽園」にしてくれている。
そう思って見ると、それをそうせしめてくれた春菊の花にも手を合わせていたくなる。有り難うを言いたくなる。
風が少し有るのだろう、草丈の高い分、少しだけゆらゆらしている。
蜂の羽音もしている。光があふれている。
偉くならないままに死んでしまったら?
偉いことなどなんにもしないで死んでしまったら?
☆
偉くなれなかった者は処罰する、だなんて大声でまくし立てて、鬼さんどもが集まって取り囲んで、ぎざぎざの棒で百叩きするのかなあ。
そんなこたあないよなあ。そんなことはないよなあ。
此処はそんなムゴタラシイ世界じゃないよ。光がおだやかにおだやかにあふれている世界だよ。あったかい世界だよ。
「偉くならねばならない」なんて条件はナシだよ。
安心してていいところだよ。此処は仏陀の国だよ。何処まで行っても仏陀の国が続いているだけだよ。
☆
威嚇と脅しが罷り通っている世界、争いの世界は、この娑婆世界だけだろうね。
始めから終わりまでニコニコとしていていいところだよ。安心しきって、ただただただただニコニコしていていいところだよね。
始めも終わりはないけどね。無量寿と無量光の、永遠の仏陀世界だからね。
生きている間生きていればいいんだよなあ。そうだよなあ。
その間、にこにこして生きていればいいんだよなあ。
できるだけ、だけど。自分は、なかなかそうはなれないんだけど。
うん。それでいいんだろうね。
ツピンツピンツピンと春の小鳥が来て歌ってくれている。
四十雀(しじゅうがら)だろうか? 自信がない。
いい気持ちで歌っている。
羨まないで、恨まないで、憎まないでいられたら、それでグーのグーだよね。
「オレは偉いんだぞう」などとコケオドシしないで。静かに穏やかにしていられたら。
(春の小鳥にはそれができているのかもしれない)
争わないで、脅しを掛けないで、自分が生きていること、生きていられることを感謝している。そうなれたらいいよねえ。
そういう暮らしを立てている普通の人間さまもたくさんたくさんいるだろうなあ。
今日はお昼からシャクナゲを見に行ってこようかな。咲いているかな?
脊振村広滝から脊振山麓の田中に至る県道の両脇に並木がある。
ここだったら、歩かずに、車の窓から鑑賞できる。もちろん無料。(僕の麻痺の足の捻挫はかなり回復しているが、長く歩き回るのは無理だろう、杖を突いてでも)
木もかなり大きい。樹齢数十年だろうか。数年前にも見に行った。キレイだった。
スマホで写真をたくさん撮って来ようっと。
今日は午前中に掛かりつけのクリニックに行って来た。いつもの薬をもらって来た。42日分の。
胸と背中から聴診器を当ててもらった。ドクターはパソコンとにらめっこだ。これまでの診療履歴を確認されているようだ。
その後、血液検査と尿検査をしてもらった。
次に薬をもらいに行ったときに検査結果を聞くことにする。
患者さんが多かった。待ちくたびれた。支払ったお金は1800円なり。
ベトナム人(?)らしい若者が二人、コロナのワクチン接種を受けに来ていた(ようだ)。カタカナで名前が記されていた。
わが家の畑の玉葱を初収穫。5個だけ。今晩の夕食の天麩羅にするための。
でも、小さい。
栽培がへたくそ。いつもへたくそ。大きく実らない。
ま、いいか。いいか。
家内が洗って、笊に乗せて、お仏壇にお供えしている。
つやつやに光っている。
今日はお天気もいい。光が庭で雀たちと一緒になって、きゃっきゃっと声を立てて、遊んでいる。
此処にこうしていることがみんなみんなほんとにこころから嬉しそうだ。
いつもいつもいつも、ぷうしているぷうさん。怒ってばかりいるぷうさん。怖い怖い顔をして、怒っていなければならないぷうさん。いつもいつもいつも怖い顔をしていなければならないぷうさん。ご飯を食べてるときにも、寝ているときにも、ニコニコしていたくなるときにも、顔をひきつらせて、恐ろしい顔をしているぷーさん。
もう元には戻れなくなってる。
もう庭の牡丹が散ってしまった。
花の盛りは短いなあ。
美しく咲いた花も、やがて散っていくんだよなあ。
命短し、恋せよ乙女。だよなあ。
人を恋するためには、命が短くなければならないんだろうか。
そんなこともないだろうけどね。
☆
この写真はまだ蕾んでいた頃のピンクの愛らしい牡丹。
人は人を演じてる。ぷーさんはぷーさんを演じてる。ぷーさんらしくないといけないねで、ぷーさんらしくしている。いつのまにか、まわりからそうさせられている。演じないわけにはいかなくなっている。まわりを恐がらせて来たので、それが身に付いてしまっている。まわりが忠実にぷーさんの強硬姿勢を維持させるようになってしまっている。初めからあんなにぷーしてなんかいなかったのに、ぷうを演じ分ける役者に成りきってしまっている。奉られて奉られているうちに、演じていることすらも分からなくなっている。
だから、誰だって、そうなるのだ。条件すら整うなら、相手を威圧するぷーさんにもなれるのだ。そのうちそのうちに、恐怖政治の親玉にもなれるのだ。長く長く長くその親玉の座についていると、成りきってしまうのだ。
ぷうしてないぷーさんだってあっただろうに!
あどけないぷーさんだってあっただろうに!
ニコニコしているぷーさんだってあっただろうに!
人は人を演じている役者だ。