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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

にんげんに、老いはあるのか?

2021年02月17日 17時41分28秒 | Weblog

にんげんに老いはあるのか?

 

老いたらもう少しはマシになっているはずだが、そうなっていない。

 

だから、このにんげんには老いはなかったことになるのではないか。

 

考えていることはなんともなんともチャチである。成長が伴っていない。

 

厚みがない。威厳がない。ふくらみがない。痩せたままである。なんだこりゃと思う。

 

そして、そのくせ、甘ったれる。でれでれする。人からばかりやさしくされたがる。遊んでもらいたがる。

 

老いていないのなら、若いのか。それがそうでもない。全身の皮膚には皺がある。頭は禿げている。よぼよぼしている。つまづく。顛倒する。肉体は確実に老いている。老いているのは肉体であって、精神はそうではない。老成がない。完成完熟にはほど遠い。なってない。

 

わたしの目は老いているが、目が見ている風景、見ている世界は不変である。山は山をしている。木々は緑色をしている。海は海をしている。波は力強く寄せて来る。これを不思議に思う。見る人に応じて風景も老いてよさそうなのに、と思う。風景には皺がない。禿げがない。

 

 

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屋根は真っ白になった。この分だと今夜は積もるだろう。

2021年02月17日 17時35分22秒 | Weblog

雪は降り止まない。5時半を過ぎた。薄暗くなってきた。今降っているのはざらめ雪である。細かい。うどん粉にようにも見える。あいだあいだに、綿雪が混じっている。斜めに落ちているかとおもうと、つぎには舞子のように舞っている。屋根は真っ白になった。このままだと今夜は冷えて積もるだろう。

 

さっき、庭に出て行って、雀の餌を餌場に撒いてきた。なにしろ50羽ほどの雀たちが集まって来るので、餌はすぐになくなってしまう。で、その後はお腹を空かしたようにして、鳴き交わすのである。仕方がない。わたしはそれに耐えられなくなって、雪の中へ走って行くことになる。

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寂しさだけは一人前、二人前なのである。

2021年02月17日 17時17分51秒 | Weblog

わたしは珠子のことを思っているが、珠子は、わたしに思われて、迷惑気味かも知れない。

 

わたしがじゃ、二枚目だったら? 珠子はもう少しにっこりしてくれるかもしれない。わたしが人格者だったら? そりゃそういう人格者に思われているだけで、格上がりして、威厳をも保つことができるかも知れない。

 

珠子は、わたしがクレヨン水彩画で描いたレデイである。額にいれられて飾ってあるので、動きがとれない。珠子が動きがとれないので、こっちが動くことになる。ちょっかいを出すことになる。話しかける。すると珠子は、仕方なく遊び相手を引き受けることになる。

 

二枚目には、しかし、どんなに努力しようができることではない。人格者にもなれそうにない。困った困った。せめてもの、ジェントルマンを気取ってみる。居住まいを正してみる。珠子の前に来て、キャップを脱いで、ハットを被ってみる。

 

この老爺はさびしいのである。寂しがり屋。でも誰も相手にはしてもらえない。そうだろうそうだろう。無理もない。よぼよぼの、よれよれなのである。どこからどう光を当てても、さまにはなれない。それはそうなのだが、寂しさだけは一人前二人前である。

 

わたしは画中の珠子のことを美しく美しく思う。そう思っていればこの世が美しくなるのである。生きていることが美しく思われても来るのである。そんなふうに美しく美しく思われている珠子は、しかし、それでもなお迷惑気味かも知れないのだが。

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仏像はあれは仏様か? 仏は人なのか?

2021年02月17日 16時54分36秒 | Weblog

先日、九州国立博物館に行った。奈良中宮寺の仏像展を見た。圧巻は、半跏思惟像であった。崇拝信仰の仏陀菩薩たちが、ここに来ると美術芸術となってくださって、われわれの目の前に、動かずじっとして、美しく厳かに立って下さっていた。申し訳がないような気持ちにもなった。

 

仏像は仏陀のイメージである。仏陀を偲ぶよすがである。像の向こうに、あるいはただ中に、仏陀を感得する。仏陀はこの俗世の人ではない。真如界に逝かれている。しかしそれでは、我々人間は仏陀を近くに感じることができない。それで近くに下りて来て化現されるのである。

 

仏陀は人の形を取られている。では仏陀は人なのだろうか。目も鼻も耳も口も手も足もある。人の形を取っていて下さらなかったら、どうなるか。人間とはまったく違った、異なった姿形をしておられたら、わたしたちは親しさを感じ得ないで、遠巻きにするばかりだろう。仏陀は変化(へんげ)身である。いかようにも変化される。仏法、仏の教えが届きやすい姿・形をとられる。だから、にんげんそのものに見える。

 

此処においでおいでをされている。そこへ行くと今度はまた次へ進まれて、またそこでおいでおいでをされる。こうしてわれわれは手を引かれていくことになる。仏の国まで導かれて行くことになる。仏陀の国まで行けばまたまったく違った仏様を仰ぐことになるのかも知れない。楽しみにしていよう。

 

中宮寺の仏像展を見て外へ出た。でも、「見た」というだけで、なんだか特別なご褒美を頂けたような気がした。仏像を通して仏陀に触れるチャンスを得たのだろう。ああ、よかったと思った。そういう気持ちがしてあたたかくなった。

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いい気なもんだ、まったく

2021年02月17日 16時40分20秒 | Weblog

仏様とわたしは遠くなったり近くなったりする。

 

わたしが経を読むとわたしになってくださっている。このときには、わたしとの距離をとられない。

 

仏様にならなけらば仏様の説かれた法(ダンマ)は聞こえてこない。それで、そうなさる。距離を置かないで、すっとわたしになってくださる。

 

わたしは、ふむふむ、ふむふむなどと言う。どうしてだか、分かったつもりになる。後から考えれば、その傲慢が恥ずかしくもなる。

 

経を読み終えるとわたしはまた日常に戻る。するともう居て下さっていた仏様のことなどけろりと忘れている。

 

手足は迷妄に下り、口は旨いものを頬張る。愚痴をこぼし出す。いい気なもんだ、まったく。

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クレヨン画の中のにんげんの珠子がじっとわたしを見ている

2021年02月17日 16時09分51秒 | Weblog

夜明けからずっと雪。一日、雪が降っている。途中、しばらく止んでいるが、また降って来る。綿雪粉雪である。

 

何処にも行かないで、じっとしている。炬燵の中に座ったままでいる。することはいろいろある。飽かない。お尻が痛いがこれも我慢の範囲内だ。

 

眠気が襲ってきて、午前中に一度、午後にも一度うつらうつらしてしまった。午睡は快感である。とろりとろりとわたしの固体物質が飴になって解け出してしまう。

 

珠子のことを幾度か考えた。珠子とはクレヨン画の画中の人物である。画中でしか生きていない。外へ持ち出すと掻き消える。さびしいときには、珠子を描いて、あれこれの会話をしたりして、たわむれる。

 

クレヨンが遊んで描くにんげんの珠子はじっと我を見ている   山鳩暮風

 

画帳とクレヨンを手の届くところに置いている。クレヨン水彩の絵筆と溶かす水を容れたガラスの器は炬燵の上にある。老爺の遊び道具である。

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