応当発願 願生彼国 所以者何 得与如是 諸上善人 倶会一処
仏説阿弥陀経より
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まさに発願して彼の国に生まれんと願うべし。所以(=故)如何(いかん)となれば、かくのごときの諸々の上善人と、倶に一つの処(=極楽浄土)にて会うを得ればなり。
(「与」字は「・・・といっしょに」の「と」に相当する文字)
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ここでいま願いを起こしなさい。彼の国(=極楽浄土)に生まれたいと願いなさい。どうしてかというと、このようなたくさんの上善人(仏・菩薩)と此処でいっしょに会えるからです。行けばそこでこのような人たちと同じようにあなたも上善人の仲間入りを果たせますよ。
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「倶会一処」(倶に一つの処に会う)の文字が墓石に刻まれているのをよく見かける。「仏のいます国の極楽の地でまたいっしょに会えますから」という意味だろう。
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では、発願しなければいけないか。そうではあるまい。発願した者のみが極楽浄土に生まれるのではない。どんな条件もついていない。誰もが等しく救済にあずかれるのである。安心していていい。それが仏の請願なんだから。
発願は、いまここですぐにそのイメージが起こせる魔法である。現世での往生成仏の手段である。死んでから行くのではなしに生きている今此処で極楽浄土の地を踏みたいお人は発願が勧められている。
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極楽往生は無条件である。悪人も善人もない。全員救済でなければ仏陀の請願は虚偽だったということになる。心配はいらない。仏陀の請願は守られている。
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仏典は救済の教えである。始めから終わりまで、「心配は無用です」「あなたをわたしが救います」ということが書かれている。おまかせしていていいのである。往生成仏はわたしがわたしの力量でもって実現することではない。他力救済である。
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さて、そのようになって、わたしが彼の地に移動して諸々の上善人(=仏・菩薩)たちと出遭ったらどうなるだろう? わたしはその場で卒倒してしまうのではないだろうか。気絶してしまうのではないだろうか。なにしろ皆輝きに輝いている人たちばかりである。裸眼で太陽を見るようなものではないか。目が潰れてしまうのではないか。大丈夫。そうはならないような工夫がきっと施されているはずである。徐々に目を慣らしてもらえる工夫がしてあるはずである。はじめに花園があって、蝶が飛んで、鳥が鳴いて、懐かしい人たちに会って、それからそれから菩薩に紹介されて、最後に数々の仏陀に引き合わされていくのだろう。最後の仏陀との面会までにはしばらく時間がかかりそうだ。