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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

えんえんえんえん泣こう

2020年06月28日 18時03分06秒 | Weblog

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一つの道行きは、南無極楽大菩薩様。もう一つの道も用意されていて、これが南無地獄大菩薩様。西回りと東回りの両方の道。

仏教は慈悲と知恵の宗教である。慈悲の道が一つ。知恵の道が一つ。切り返せる道が一つ。

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えんえんえんえん泣こう。極楽の一道を進み得た者もえんえんえんえん泣こう。往生成仏したことを嬉しがって泣こう。地獄の一道を選んだ者もえんえんえんえん泣こう。仏陀に守られて導かれて地獄を歩きしめて行くことができた感動でえんえんえんえん泣こう。守られて導かれて最後に仏陀に出遭ったことにうなずいて泣こう。

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わたしの中には悲しみがあります

2020年06月28日 17時50分04秒 | Weblog

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南無地獄大菩薩様。わたしのなかには悲しみがあります。わたしの中には苦しみがあります。これがわたしの背骨をなしています。背骨の下に、わたしを歩かせる足腰があります。

おお、おお、そういえば、文学は悲しみであふれているではないか。詩は悲しみであふれているではないか。悲しみがにんげんに熱い涙を落とさせるではないか。

 

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わたしに地獄を体験させてくれたことに感謝します

2020年06月28日 17時45分27秒 | Weblog

南無地獄大菩薩様。わたしに地獄を味わわせてくださったことに感謝します。わたしを地獄に落としてくれた人達にこころからの感謝を捧げます。あなたにいじめられたおかげでわたしは地獄の苦しみと悲しみをこの身に引き受けることができました。済んでしまえばみなそれはお宝ものでした。わたしを鍛え上げてくれました。わたしに新しい生き方を示唆してくれました。後悔をしていません。恨んでいません。わたしはあのころよりももっともっと輝いています。

地獄の苦しみ悲しみを嘗めることができたことが、決して悪い結果になっていない。むしろそこを起死回生の薬としている。そこまで切り返した人達もいるだろう。そこから頑丈な足腰、筋肉を身につけ得た人達もいるだろう。

 

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地獄、ここも人間を育成するところ

2020年06月28日 17時42分01秒 | Weblog

(わたしの推論は続く。だらだら続く)

地獄はにんげんを作るところである。溶鉱炉に入れて熱して叩いて引き延ばして人間のゴールドを精製するところである。此処を経ていかないと鉄くずのままで終わる。だから地獄は菩薩の働き場である。菩薩は利他の仕事をする。真人間を作るにはどろどろに煮てしまって形もなくしてしまうのである。それらの初段階を経て人間が金剛石に仕上がって行くのである。そういう一連の作業場、工場のあるところが地獄である。そういう荒技に耐えうる人たちが人間形成をやり直す場である。貴重な場である。

地獄で叩かれて熱せられてぶち壊された人間が次を目指す。その苦しい悲しい体験をさせられた者が次を目指していく。目を見開いて次を目指して歩き出す。仏陀の国を目指して歩いて行く。険しい山道を登り詰めていく。

 

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地獄、ここが仏教の出発点にもなる

2020年06月28日 17時36分04秒 | Weblog

白隠さんは小さい頃に地獄が恐くて恐くて泣きに泣いて過ごしたらしい。そこが出発点だったらしい。白隠禅師は地獄を仏教の出発点にしたのだろう。

仏道修行をされた結果で、「地獄もよいところ」の結論を得られたのであろう。そこまで行き着くのにいったいいくつの地獄を巡って行かねばならなかったのだろうか。地獄を逃げずに向かい合って過ごされたからだろう。

「おれはまっすぐに極楽に上がる」「地獄か、ふん、あそこは悪人どもの行くつくところ」ですまされなかったのである。地獄に落ちるたびに、衆生救済の慈悲の思いが強まっていったのである。

あなたちは極楽へどうぞ。わたしは地獄にてあなたがたを見上げております。これも利他である。

 

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わしは頭から地獄へ落ちて行く

2020年06月28日 17時31分39秒 | Weblog

檀徒衆の一人が、「和尚さんはところで死んだら極楽地獄のどちらへ行かれるのですか」と無遠慮に尋ねてみた。すると和尚は「そりゃ決まっている。わしが行くところは地獄だ」「和尚さんは地獄行きですか?」「わしが行っておかねばおまえたちがここへ来て困るだろう」とお笑いになった。これは一つのエピソードだ。

「みなは落とされたくないと喚いて泣いて足下からずり落ちて行くであろうが、わしは頭から地獄目指して落ちて行く」とも。いかにもいかにも禅坊主らしい。いさぎがいい。度胸が据わっている。恐れがない。無有恐怖(むうくふ)の観音様になっておられる。

この境地に来るにはいくつもの分厚い地獄が控えていたのであろう。

 

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人間を悲しくさせてくれるところ

2020年06月28日 17時25分28秒 | Weblog

人間を悲しくさせてくれるところが地獄である。人間を苦しくさせてくれるところが地獄である。そこを経過して行く。そこをなめていく。したたかに打ちのめされてそこから這い上がって行く。人間の修行場こそが地獄である。傷一つつけたことがない人間に、生きる妙味が味わえるか。極楽のありがたさが分かるか。極楽を喜べるか。疑問が残る。

悲しみを背負って背負って人は次の地点へ歩いて行く。うなってうなって歩いて行く。負けるものか負けるものかのど根性を植え付けていく。成長を促されていく。

 

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「南無地獄大菩薩様」 これは白隠禅師の言葉。

2020年06月28日 16時29分25秒 | Weblog

白隠禅は「南無地獄大菩薩様」と揮毫しておられる。筆者にはしかしその本意がよく分かっていない。

今日はここをしばらく考えてみる。

 

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あなたとまたいっしょに同じところでお会いしましょう。仏典を読む。

2020年06月28日 15時54分02秒 | Weblog

応当発願 願生彼国 所以者何 得与如是 諸上善人 倶会一処

仏説阿弥陀経より

まさに発願して彼の国に生まれんと願うべし。所以(=故)如何(いかん)となれば、かくのごときの諸々の上善人と、倶に一つの処(=極楽浄土)にて会うを得ればなり。

(「与」字は「・・・といっしょに」の「と」に相当する文字)

ここでいま願いを起こしなさい。彼の国(=極楽浄土)に生まれたいと願いなさい。どうしてかというと、このようなたくさんの上善人(仏・菩薩)と此処でいっしょに会えるからです。行けばそこでこのような人たちと同じようにあなたも上善人の仲間入りを果たせますよ。

「倶会一処」(倶に一つの処に会う)の文字が墓石に刻まれているのをよく見かける。「仏のいます国の極楽の地でまたいっしょに会えますから」という意味だろう。

では、発願しなければいけないか。そうではあるまい。発願した者のみが極楽浄土に生まれるのではない。どんな条件もついていない。誰もが等しく救済にあずかれるのである。安心していていい。それが仏の請願なんだから。

発願は、いまここですぐにそのイメージが起こせる魔法である。現世での往生成仏の手段である。死んでから行くのではなしに生きている今此処で極楽浄土の地を踏みたいお人は発願が勧められている。

極楽往生は無条件である。悪人も善人もない。全員救済でなければ仏陀の請願は虚偽だったということになる。心配はいらない。仏陀の請願は守られている。

仏典は救済の教えである。始めから終わりまで、「心配は無用です」「あなたをわたしが救います」ということが書かれている。おまかせしていていいのである。往生成仏はわたしがわたしの力量でもって実現することではない。他力救済である。

さて、そのようになって、わたしが彼の地に移動して諸々の上善人(=仏・菩薩)たちと出遭ったらどうなるだろう? わたしはその場で卒倒してしまうのではないだろうか。気絶してしまうのではないだろうか。なにしろ皆輝きに輝いている人たちばかりである。裸眼で太陽を見るようなものではないか。目が潰れてしまうのではないか。大丈夫。そうはならないような工夫がきっと施されているはずである。徐々に目を慣らしてもらえる工夫がしてあるはずである。はじめに花園があって、蝶が飛んで、鳥が鳴いて、懐かしい人たちに会って、それからそれから菩薩に紹介されて、最後に数々の仏陀に引き合わされていくのだろう。最後の仏陀との面会までにはしばらく時間がかかりそうだ。

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朝顔の蔓は左巻きをする

2020年06月28日 15時15分03秒 | Weblog

朝顔。ヒルガオ科の蔓性一年草。熱帯アジアの原産。中国から渡来した。江戸時代後期には園芸植物として改良されて発達普及した。

蔓は左巻き。どうしてなんだろう? 気まぐれに右巻きなんてないだろうか?

夏の花。葉の付け根にラッパ型の花を咲かせる。品種が多い。花色も無数にある。種子に色も黒、茶、白などがある。

種子は古来生薬の牽牛子(けんごし)として利尿剤、下剤として用いられた。秋の七草に言う朝顔は別の植物。別名鏡草、牽牛花。キキョウの古名。

ムクゲの別称。昼顔の別称。蜉蝣の古名。

漏斗の形をしたもの。おとこの小便用の便器もこう呼んだ。

7月6日から8日まで東京入谷の鬼子母神境内で朝顔市が開かれる。鉢植えの朝顔を競う。

「朝顔の花のひととき」とは花のしぼみやすい喩え。はかないことの喩え。「槿花一朝(きんかいっちょう)」とも言う。

季語では秋。朝顔姫という呼び名もある。朝顔、昼顔、夕顔。ともに夏の花。英語名は、morning glory。朝の栄光。

以上、電子辞書で調べてみた。なるほどなるほどというところがあった。

朝顔の鉢を10個今年の夏も育てている。もう咲き出したので、朝起きるのが楽しみである。棚は作らないでいる。

小学校低学年ではよく朝顔の観察がされている。朝顔の種まきをして花壇に植えて、夏休みに水遣り係を割り当てられて、育てて、美しい花を咲かせる。美しいものを育てるところに教育的な意義があるのだろう。

そろそろ追肥をしておこうかな。液肥を。 

 

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