今夜の夕食は焼きビーフンだった。おいしかった。
ビーフンは好きな食べ物である。
生まれ故郷の台湾を旅したときに、この料理にすっかり魅せられてしまった。
台湾の黄先生のご婦人が作って下さったのが絶品だった。忘れられない。
ああ、台湾をまた旅してみたいなあ。しかし、もうこの高齢では、無理だろうが。
今夜の夕食は焼きビーフンだった。おいしかった。
ビーフンは好きな食べ物である。
生まれ故郷の台湾を旅したときに、この料理にすっかり魅せられてしまった。
台湾の黄先生のご婦人が作って下さったのが絶品だった。忘れられない。
ああ、台湾をまた旅してみたいなあ。しかし、もうこの高齢では、無理だろうが。
「20020年の私」
2020年5月。そうするべきところを、キーを打つ指が滑ってしまって、20020年5月としてしまった。そしてふっと、そういう今を生きているヘンな感覚に襲われた。これから18000年を過ぎた先に来るのが20020年である。途方もない遙かな先の未来だ。だが、その時にも「今現在」はあるのだ、間違いなく。その「途方もない未来の現在を生きているわたし」を思ってみた。わくわくした。わたしは生きていない? そう、わたしは生きていないだろう。だが、わたしによく似た別のわたし(人類によく似た別の生命体?)が生きているかもしれない。その彼も自分のことを「わたし」と呼んでいるのだ。地球誕生から46億年が過ぎている。宇宙の始まりはそれから100億年を遡る。だったら18000年なんて軽快に過ぎるだろう。わたしがその遙かな過去に生きていた事実なんて、もはや事実の部類にすら入っていないかもしれない。そういう軽快さの中を生きているわたしだ。だったら、今現在どんな混迷の世を生きていようと、重々しくではなく、悲愴な顔をしてではなく、もっと軽快に、さらりと生きていていいように思われた。
☆
このわたしの小文が今朝のS新聞の読者のページに掲載された。10日ほどまえに投稿していた。掲載されると、思いが通じたようで嬉しい。
朝5時過ぎに起床。明るくなっている。すぐに外に出た。さわやかだ。
今日は家の周囲の庭と畑の仕事をすることにした。まずは種から蒔いていたヒャクニチソウを6株ほど庭先に移植した。それから買ってきていたニチニチソウ5株をプランターに移植した。その後は小径の草取り。
で、朝ご飯の時間になった。食べた後で新聞を開くと、読者のページに、10日ほども前に投稿していた僕の小文が、掲載されていた。