<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

見ていると不思議で不思議でしょうがない

2018年02月19日 18時40分12秒 | Weblog

パパとママはセックスをするだけでいいのである。あとは受精卵が細胞増殖を繰り返して独自の発達を遂げていく。すると目ができる、口ができる、顔の両端に耳ができる、顔の真ん中に縦向きの鼻ができる。マジシャンがマジックをするように、十月十日で生きて行くのに必要なすべての部品ができあがる。心臓が打ち出す。血液が流れる。肺が呼吸をする。もちろん、産後はママがおっぱいを差し上げねばならないのだが、生まれて来るまでの十月十日間、ママが直接胎内へ潜り込んで行って、胎児の細胞増殖に関わるわけではない。計画書は赤ちゃん自らが遺伝子に隠して持参して来て、その計画書通りに人間完成の全過程が遂行されていくのである。

人間の顔をまじまじと見る。目がある、口がある、耳がある、鼻がある。同じように造られている。見ていると不思議で不思議でしょうがない。神さまを知るのはそのずううっとずううっと後のことなのである。其れも不思議で不思議でしょうがない。

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「安心しなさい」を諄いまでに何度も何度も繰り返される

2018年02月19日 18時05分49秒 | Weblog

彼仏国土 無三悪趣 其仏国土 尚無三悪道之名 何況有実      浄土教典「仏説阿弥陀経」より

ひぶつこくど むさんまくしゅ ごぶつこくど しょうむさんまくどうしみょう がきょううじつ

彼(か)の仏国土には 三悪趣なし 其の仏国土には なお三悪道の名すらなし いかに況んや実あらんや

極樂国土という仏国土には、安心なさってください、地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪趣界はありません。それどころか、そういう世界の名すらありません。ですから、安心なさってください、そこにはそういう恐怖するべき境界の実体はないのです。ここはそういう辛い現実体験をすべてかなぐり捨てて来るところです。(これはさぶろう訳ですから、受け取りに間違いがあるかも知れません)

三悪趣=三悪道。地獄・餓鬼・畜生の境界。畜生界は、奴隷としてこき使われるだけで自由を持たないところ。餓鬼界は、常に飢えていて不満足を悔やみ嘆いているところ。地獄界は、畜生界、餓鬼界の住人からでも蔑まれるような暴力支配の最低の暮らしから抜け出せないでいるところ。

阿弥陀経の経典は仏陀=お釈迦様が説法をされている経典である。阿弥陀仏の国=極樂という国土のことを語っておられる。聞いているのは苦界の人たちである。恐怖心とそれを裏返しにした傲慢心に支配されている人たちである。あなたたちもこの仏国土に行き着きます。安心しなさい、安心しなさい、安心しなさいと諄(くど)いように何度も何度も繰り返されている。

それでもなお悪行悪業のわたしは心配でたまらない。仏陀の説法を信じられないでいる。そりゃそうだろう、それほどの悪行悪業を積み重ねて、今も尚その上に積み重ねているのである。悪行悪業を聞くだけの耳で通して来たのである。仏陀の声が耳に留まらないのである。そういうあなたをわたしが救います、と阿弥陀仏が約束をする。さぶろうの立場に引き当てたら、これは限りなく限りなく「虫のいい話」なのである。

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港の小舟は波止場に摑まっているというのに

2018年02月19日 17時49分18秒 | Weblog

早も夕暮れ。薄暗くなってきた。天地が薄暗くなってきたら、心細くなる。ふういと消されてしまいそうに思えて来る。消そうとすれば簡単に消されてしまうような、心細さ。何かに摑まっていたい。何に捉まっていたらいいのだろう。両手が捕まえるものはあるか。ありそうには思えない。港の小舟は波止場に摑まっているというのに。

烏が鳴いて山の方へ飛んでいく。その方角に塒(ねぐら)があるのだろう。

死ねば消えてしまうのか。消えてしまうのは不本意か。本意か。此処を消えて何処に現れるというのか。演舞場の舞台からは役者が下りて消える。舞台は暗転する。劇が終わる。役者たちは思い思い舞台裏の一室に戻って、被っていた役者という鬘(かつら)を脱ぐ。それからそこは談笑の場に成る。なあんだ、消えたのではなく、隠れただけだったのか。

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現成(げんじょう)は「現在で成る」と書く 無心の姿か

2018年02月19日 16時30分28秒 | Weblog

戒を受けて出家した修行僧を比丘(びく)という。おんなの修行僧は比丘尼(びくに)という。サンスクリット語の音訳らしい。原意は「食事を信者から布施されるにふさわしい者」を指す。乞食(こつじき)者。一方的な物貰いではない。布施されるにふさわしい者は、修行者でなければならない。ものの本にはそうある。

修行は己を高めるだけではない、そうされることで相手を高めることが出来る。相手を高めることは、法の布施によって成立する。このように互の浄らかな行為が往復して、そこに清らかな仏法が現成(げんじょう)する。現成(げんじょう)は「現在で成る」と書く。

「現在で成っているもの」はたくさんある。二月の白梅紅梅もそうである。其れを傍で美しく賞(め)でているものもそうである。互いに互を布施して、即時に比丘と比丘尼に成っている。比丘尼は白梅紅梅、比丘は賞賛している者。与えて与えられる。受け止めて受け止められる。互いに高め合っている梅園の小径。

与えているという自己顕示もなく、与えられているという自己惑溺もない。囚われのない無心の現成。自然界はそれがほとんどかもしれない。

 

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わたしは軽くなって蝶の魂になる

2018年02月19日 16時01分10秒 | Weblog

愛欲の強さ、したたかさ。自己顕示欲の根強さ、したたかさ。煩悩の重さ、したたかさ。愛着の粘り強さ、したたかさ。苦しい。

苦しい地獄を彷徨いながら、なおも愛欲へ走る。自己顕示を謀る。それが引いては、頑強な生きるエネルギーになっていることもある。

わたし一個を満足させるために、わたしへの奉仕が生涯に亘って続く。

ときどき惑溺のわたしから逃れ出てみたい。肩の荷物を下ろして軽くなりたい。愛欲を捨てて、自己顕示欲を捨てて、蝶のように軽く軽くなりたい。

死はそれを果たしてくれる。やがて、それを果たすために死がわたしに訪れて来る。わたしは軽くなって蝶の魂になる。飛び回る。

 

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マハトマ・ガンジーに啓発されて 考え事をする

2018年02月19日 15時02分36秒 | Weblog

雨が霙に変わったか。寒い。この寒さを厭わずにヒヨドリが甲高く鳴いている。

「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」           マハトマ・ガンジー

永遠に学び続けられる嬉しさにこころ弾ませて今日を生きていたい、しかし、明日死んでもいいように潔くもありたい。生涯かかって学び得たものの、その一切を捨て去って、悔いないようにして今日を生きてもいたい。贅沢が過ぎるか。

贅沢の中にいる。明日死ぬというのも贅沢。永遠に学び続けられるというのも贅沢。永遠を費やしても学び尽くせないほどの深い真理にわたしが手厚く取り巻かれているというのも贅沢。

ガンジーは刹那刹那、今日の刹那、明日の刹那を大切にして生きよということを言いたかったのだろうか。

では何を学ぶか。永遠に学ぶこととはどんなことか。学んで其れをどうするのか。

わたしの肉体の中の60兆余の細胞は永遠を学んでいる。永遠の過去を観察しながら永遠の未来を築いていこうとしている。明日わたしが死んでもそれで中断することはない。

明日死ぬかも知れない。しかし、そうすることで実は永遠を生きているのかもしれない。

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これから朝風呂を頂戴する 此処は海沿い やや塩っぱい。

2018年02月19日 06時58分56秒 | Weblog

おはようございます。泊まっている宿の、障子戸を開けたら、アスファルト道の雨。並木の山茶花を濡らしている。行き交うトラックの飛沫が跳ねる。その分、気温は高い。

今日は午前8時から午後3時までは温泉が止められる。何処か大掛かりな修理をされるのだろう。事前予告の看板が玄関脇に大きく立っていた。

帰ってもいいなあ。帰らずにいてもいいなあ。無用という有用だけしかない。来る日も来る日も。格別の用事はない。怠け者をしているばかり。

雑用という用はないらしい。用を雑にするときに顔を出す雑用ということか。しかし、ことさらに構えてすることでもあるまい。用を過剰意識することもあるまい。

用のハタラキは、天地宇宙に限定されず、常に我が身にも働いている。故に無用。故に有用。我が計らいごとは無用。此処は仏のお計らいに満ち満ちたところ。

これから朝風呂を頂戴する。

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目蓋を持たない魚の目は眠らない目 眠らずに修行に打ち込む

2018年02月19日 06時31分48秒 | Weblog

目蓋を持たない魚の目は眠らない目。眠らずに修行に打ち込む仏道修行の目。禅寺に吊り下げられた木製の巨大魚が、午前3時に打ち鳴らされる。目蓋を持たない魚の目は涙を拭わない目。流れる涙を川の流れが流してくれる。仏の同悲が流してくれる。目蓋を持たない魚の目は見開かれた目。開眼のまま、浄不浄を見て逆らわず。ついに不退転の覚悟の目。もはや悟りを開いた菩薩阿羅漢。真理に驚いて瞑目がない。

堕落に眠るさぶろう老爺の空耳は、遠く遠く仏道修行禅寺の夜明けの響きを聴く。

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