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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ああそうだったのかと最後に肯ける その4

2017年10月25日 14時44分51秒 | Weblog

人生の最後を迎える。と、「ああ そうだったのか」と誰もが肯けるのだ。

そこまでが長い。でも、最後に肯けるのだ。醒悟(しょうご)するのだ。

最後の醒悟で、長い生涯のすべての悲の道が償われていくのだ。行の道が悟りの道になるのだ。

そんなことをこの法華経の言葉で考えた。もうすぐ午後3時になろうとしている。そろそろ外に出てみる。フカネギに土を寄せてあげよう。

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ああそうだったのかと最後に肯ける その3

2017年10月25日 14時43分46秒 | Weblog

好きこのんで悲の道を歩こうとは思わない。如来寿量品では、良医であるこどもたちの父親が、故意に、つまり意図して、この道にこどもたちを誘い込む。そして目覚めさせる。良医とは仏陀のことである。結果を先取りできるのは仏陀の智慧である。我々はそうはいかない。悲の道は悲としか映らない。しかし道は通じているのである。光の道へ、智慧の道へ通じているのである。仏陀の道に誘い込まれてそこで醒悟する。この結果を頂いてはじめて、ああそうだったのかと肯ける。

 

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ああそうだったのかと最後に肯ける その2

2017年10月25日 14時42分24秒 | Weblog

悲という道がある。喜び楽しむ道というのもある。或る日、悲の道を歩まされる。来る日も来る日もそこを歩まされる。がっくり肩が落ちる。目が暗くなる。とぼとぼとこの人生のトンネルを歩み続ける。我が運命を恨む。と、あるとき、トンネルの向こうに光が射して来る。ふっと。光はこれまで何処にでも溢れていたはずなのに、この光はまばゆい。トンネルの暗さに目が馴染んできたからなおさらである。光が明るいということを初めて悟る。「ああ、そうだったのか」と思う。目が覚醒する。悲の道を歩いてきたことがここで結果する。

 

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「ああ そうだったのか」と最後で肯ける

2017年10月25日 14時06分13秒 | Weblog

常懐悲感 心遂醒悟 (じょうかいひかん しんすいしょうご)    法華経「如来寿量品」より

常に悲感を懐えば 心は遂に醒めて悟る

 

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わたしも仄かな恋をしたいから

2017年10月25日 13時24分03秒 | Weblog

深まった秋の一日。仄かな日の光があふれている。一瞬見た女性の美しい存在故に、わたしはもう朝の光の中で掻き消えてしまいたいほどになっている。人間は恋をするように生まれ着いている。恋は人間存在を美化するためのドラマだ。

朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに     万葉集巻きの第11 柿本人麻呂

恋の歌を取り上げる。わたしも恋をしたいから。仄かな恋をしていたいから。

ここの朝影は朝の日の光。作者のこころの投影である。秋から冬にかけての朝影だろう。うっすらした。黒雲に遮られていまにも消えてしまいそうな。或いは朝影の中の露かもしれない。寒い日。眼前にはどこまでも芒が打ち靡いている。

「玉かぎる」は枕詞。「宝の玉が微かな光を放っているように」というので「日」「夕」「仄か」に掛かる。枕詞ではあるがここでは見初めた人をも暗示しているようだ。宝の玉の値打ちを放って、彼女の気品が輝いていたのだろう。

「子」は男性がいとしい女性を指して遣う愛称か。彼女は仄かにしか姿を現していない。ちらりと見ただけである。或いは擦れ違っただけである。一瞬の邂逅なのだが、あまりの美しさに忘れられないのである。後に取り残された作者が、だから、朝影の露になって掻き消えてしまいそうになっているのである。やつれ果てた姿の作者はせめてもう一度、もう一度此処に姿を現して欲しいと切望する。

もう会えることはあるまい。その女性の玉のような光輝く面影が目の裏から立ち去って行かないのだ。作者柿本人麻呂はこのとき何歳だったのだろう。歌人というのは恋の詩を書くために、いつまでも老いてはならないのかも知れない。

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水曜日の午前中がこれで過ぎた

2017年10月25日 12時22分07秒 | Weblog

「おっこう(=おりますか)」といってぶらり友人来訪。上がってもらって日当たりのいい窓際の部屋の、椅子に腰掛けて、あれこれお喋りをした。蜜柑、切ってあった柿、洗ってあった葡萄、列べてあったお菓子、茶葉を新しくしたお茶を振る舞った。お昼になった。特に用件はなし。家内は留守なので昼ご飯の接待は出来ない。「それじゃ」といって友人は帰っていった。元気をもらった。その後に、ヤクルト販売員のお姉さんがやって来た。「幼稚園のこどもが風邪を引いてしまって、病院に診せてから来ました。遅くなりました」と彼女。ときどきヤクルト商品を買っているが、今日は冷蔵庫に在庫ありで買うものがなかった。何か気の毒な気がした。さてこれから一人のランチ。食っても食わなくてもどちらでもいい。何にもしていないから、腹も減っていない。マルチェッロのオーボエ協奏曲を聴いている。穏やかな気分に浸っている。

 

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わたしがここでこのまま光に変化をしたら?

2017年10月25日 10時30分22秒 | Weblog

もし、わたしが秋の日に降り注ぐ光に吸収されてしまってそっくりそのまままるごと光になったら? いや、「もし」だけでいいのだ。わたしはもはや肉体の生死を憂えることはなくなるであろう。肉体の消滅を恐れないでいいであろう。肉体の消滅が即死であるという断定に戦(おのの)かないでいられるだろう。ふっとそんなことなどを思い巡らせて庭の石蕗のまぶしいばかりの黄金を眺めている。わたしが光になったら、わたしは元の肉体を恋しがるだろうか。おだやかな秋の日の、薄青い大空が広がっている。

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わたしはここで平和に暮らしています

2017年10月25日 09時27分46秒 | Weblog

おはようございます、畑に盛り上がる小松菜さん。草丈20cmほどに成長して、緑を滴らせる葉っぱさん。あなた方が2017年10月25日、午前9時30分のお日様が射して、ますます光輝いているのを見ています。わたしとあなた方と両者は静かに向かい合っています。ここは静かな山里です。ときおり百舌鳥が藪へ飛んできて例の高鳴きをして戻って行きます。ほかに物音もありません。みなさんといっしょにわたしはここで平和に暮らしています。

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