深まった秋の一日。仄かな日の光があふれている。一瞬見た女性の美しい存在故に、わたしはもう朝の光の中で掻き消えてしまいたいほどになっている。人間は恋をするように生まれ着いている。恋は人間存在を美化するためのドラマだ。
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朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに 万葉集巻きの第11 柿本人麻呂
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恋の歌を取り上げる。わたしも恋をしたいから。仄かな恋をしていたいから。
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ここの朝影は朝の日の光。作者のこころの投影である。秋から冬にかけての朝影だろう。うっすらした。黒雲に遮られていまにも消えてしまいそうな。或いは朝影の中の露かもしれない。寒い日。眼前にはどこまでも芒が打ち靡いている。
「玉かぎる」は枕詞。「宝の玉が微かな光を放っているように」というので「日」「夕」「仄か」に掛かる。枕詞ではあるがここでは見初めた人をも暗示しているようだ。宝の玉の値打ちを放って、彼女の気品が輝いていたのだろう。
「子」は男性がいとしい女性を指して遣う愛称か。彼女は仄かにしか姿を現していない。ちらりと見ただけである。或いは擦れ違っただけである。一瞬の邂逅なのだが、あまりの美しさに忘れられないのである。後に取り残された作者が、だから、朝影の露になって掻き消えてしまいそうになっているのである。やつれ果てた姿の作者はせめてもう一度、もう一度此処に姿を現して欲しいと切望する。
もう会えることはあるまい。その女性の玉のような光輝く面影が目の裏から立ち去って行かないのだ。作者柿本人麻呂はこのとき何歳だったのだろう。歌人というのは恋の詩を書くために、いつまでも老いてはならないのかも知れない。
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