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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

お見舞いを有り難う

2014年03月11日 23時17分21秒 | Weblog
K君ありがとう。

昼間、きみは僕の家の玄関に立った。

親戚宅へ行った帰りだと行って立ち寄ったのだ。

僕がこのところ体調を崩してずっと意に染まぬ暮らしを強いられているので、

見舞いにやってきたのだ。

「よお、どうしてる」

「少しはいいかい」

「早く元通りになってまたいっしょに遊ぼうよ」

親戚宅で分けてもらった2箱の上等イチゴのうちの1箱と、

おもらいしたザボンと、借りて耕している畑でとれたばかりのキャベツとを置いて、

彼は早々に立ち去っていった。

きみが僕の見舞いにやってきたのは、この1月でもう3回目だ。

K君ありがとう。

僕はきみが去った後、しばらく玄関先に立ち尽くしていた。

ハクモクレンが蕾をふくらませていることに、このとき初めて気がついたのだった。

曇り顔なんかしているんじゃないぞ、僕は僕にそう言い聞かせ、

幾分か明るい顔を取り戻してゆっくり春の空を仰いだ。
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驚きまくり嬉しがりまくる

2014年03月11日 13時49分19秒 | Weblog
どうしてもこれからの行く末が気になってしまうんですよ。

行く末って?

うん、肉体という目に見える形を失った後のこと。



目に見なくなったら、即、存在していないということになるんだろうかね。

そんなことはないように思うね。



いまの僕だって、その僕を構成しているものは、形になれないものも含まれて、

それでバランスがとれて、成立しているんだからね。

たとえば、形をとれるものが50、形をとれないものが50。合わせて100.



目に見えて形があるものにしか、その存在を認めようとしないところがあるからね、僕らには。

でも、それは全体の半分。

物質として固定されているものが半分。固定されないものが半分。

固定されていない半分は、自由自在を楽しんでいる。



固定されていない半分は、これは全体宇宙につながっていて、

広さ深さ高さという面では、物質の肉体とはくらべものにならないところがる。

これは共通意識とでもいっていいようなもので、わたしのものという個人所有に囚われないでもいいところがある。

だから、悠然としてもいる。



悠然として不生不滅だ。生じたり滅したりはしない。

生じたり滅したりはしないから、安心していい。安心しているから悠然としている。



物質にしか生滅はないのだからね。



生じもしない、滅しもしないわたしのエッセンス。

それが、この先どうなっていくかだよ、僕の関心事は。

これまでの物質としてのわたし、肉体としてのわたしと、それを脱いでしまった後に、わたしのエッセンスがどうやって暮らしを立てていくのか。



そりゃ、束縛を離れたのだから、悠然としているよ。



旅をするだろうな。

銀河鉄道に乗って宇宙の果てまで旅をするだろうな。

銀河鉄道も宇宙も、しかし、物質界の中ではない。



僕は仏教徒だから、そこに法(ダンマ)として存在する仏陀の国、お浄土を想定する。

キリスト教的な表現をすれば、光と愛のスペース・ワールドだ。



そこへ行って、じゃ、何をするの?



うん。驚きまくる。

へえ、へええ、そうだったのか。ふうううん、知らなかった。それを激白して驚き回る。

そして嬉しがるのさ。

これまでよろこぶのをためらっていたその蓄積がヒマラヤの山ほどもあって、

ここではもうためらうことなく、素直に従順によろこぶ。



それをつぶさに教えてくれる学校があって、僕はそこへ通学する。

もちろん、先生役は仏陀だ。ガンジス川の砂の数ほどの仏陀先生が次々にやって来て、講義をしてくれる。

僕は、毎朝ここできらきらきらきらして過ごすことになる。

あんまりきらきらするから、僕の目玉が急膨張をして、僕は目玉だけになっているのかも知れない。
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