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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

太陽のように明るく輝く死後生命

2014年03月07日 18時15分12秒 | Weblog
一休禅師の遺言の歌に、

死にはせぬ
何処にも行かぬ
此処におる
尋ねはするな
ものは言わぬぞ

という、ちょっと変わった歌がある。

<死にはせぬ>というのはどういうことか。

死ぬに決まっているではないか、誰しも。一休禅師だって免れはしないはず。

ミイラにでもなるつもりか。ミイラになったところで同じである。口は呼吸をしていない。

しかし、仏陀の悟りを悟った禅師は、<死なない>を選択されている。

<死なないでいられる何か>を得たのである。



<何処にも行かないで、此処におる>のは誰か。

足のない幽霊ではあるまい。

もっとしっかりしたものだろう。

行ったり来たりする必要もないものだろう。

何処へ出しても通じるもの、共通性のあるもの、だろう。

成仏した仏陀、宇宙の調和・秩序、元に戻ったエネルギー体かもしれない。

わたしとかあなたとかいう境界を離れた共通意識体かもしれない。



<尋ねてきてもものは言わぬぞ>の<ぞ>が曲者で、

<尋ねてきたら大酒飲んで喋り捲るぞ>くらいかもしれぬ。

<もしも、此処まで尋ねてこられたらの話だが>のニュアンスが込められていそうだ。



禅師ともなればそうそう生死の一大事を隠しおおして気が済むわけがないではないか。

成仏の悟りは、晴朗にして快濶のはずである。



成仏とは<死なないいのちの発見>なのかもしれない。

この発見ができれば、息が絶えた死後と雖も、太陽のように明るいはずである。
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乗り越えていくまでは

2014年03月07日 16時41分10秒 | Weblog
熟睡ができない。おまけに恐い夢を見た。わなないた。怯えた。

わたしのこころがあからさまにわたしに恐怖を見せているのだから、

わたしのこころが強くなって、恐怖を乗り越えるしかあるまい。

恐怖(くふ)は、おのれの転倒(てんどう)した夢想のなせるわざである。

恐い夢が、さもさも実体を帯びて、わたしにこころを恐がらせてくるが、

いとも簡単に怯えてしまうわが弱さを、侮られているにちがいない。

わたしはこれまでこういうようにして恐い夢に脅されてばかりで、この対策を打っていない。

老いて、人生の終着駅はもうすぐである。ここを何が何でも克服しておかねばならない。

怯えないことだ。乗り越えることだ。

そうでなければまた次の人生でも同じ体験をさせられるはずである。

乗り越えていくまでは弱点克服をさせられることになるのだから。

快活であれ。おのれのこころよ、もっと快活であれ。ことさらに不快活に傾かないで、背筋を立てて快活であれ。
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