ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その11)

2013-11-23 01:02:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト
夜行バスが気仙沼市役所前に到着して、ほどなくこの起業家の方と、そのご友人で ぬえたちを休憩させて頂けるおうちの方が車でお迎えに来てくださいました。

Oさんとおっしゃるこの方のおうちは、ぬえたちが気仙沼で活動する際にいつも泊まる常宿にも ほど近く。。ということは大川を隔てて甚大被災地区のすぐ陸地側ということになります。このあたりも大川を遡った津波で被害があったはずだが。。

お邪魔したお家は大きな邸宅で、この家にはOさんとそのお嬢さんのお2人だけでお住まいとのこと。ぬえたちはお邪魔させて頂いた立場とは思えぬ歓待を受けまして、豪華な朝食のご相伴に預かっちゃいました。よくよく伺えば、Oさんのご主人は遠洋漁業の漁師さんとのことで、いまは遠い海にいらっしゃって不在だそうですが、震災の時もご主人は外洋にいらっしゃったのだそうです。。こういう話、以前にも伺ったことがあるな。

そうそう、それはこの5月にネットワークオレンジさんの東新城の新事務所の落成式のときで、式典終了後の会食の際にお隣りに座った、その時は初対面だった千葉さんから伺ったお話でした。千葉さんが遠洋に出ておられるご主人と衛星電話でようやく話したのは、震災の数日後だったそうで、そうしてご主人は それだからと言って船から下りて帰ることもできず。。気仙沼に戻ったのは震災の半年後だったのだそうです。

。。ところがOさんから伺った話も凄まじくて、震災の少し前に出航したご主人が気仙沼に帰宅したのは、じつに震災から1年を迎えようとした頃だったのだそうです。ご主人は、もちろん震災のニュースは伝えられたし、奥様であるOさんとも衛星電話で何度となくお話をしたでしょうから、気仙沼の被害についても知っておられたのですが、いざ気仙沼に帰ってくると、海岸の地形が変わってしまっていてビックリなさったのだそうです。

Oさんのおうちも やはり震災時には1階は津波による被害を受け、それを修理して再び住めるようにされたとのこと。話題は震災の年の夏、巨大なハエが大発生した経験の話になりました。ぬえもこのハエにはずいぶん苦しめられましたが、ここで伺った話はまたちょっと ぬえの経験とは違うものでした。こちらでは、ハエも大発生しましたが、それを狙ってスズメが同じように大発生したのだそうです。被災しなかった2階から朝起きて1階に下りてくると、壁が抜けて開け放たれてしまい、ヘドロもまだ残る部屋の中には、たくさんのスズメがいたのだとか。。

しかし ぬえが驚いたのは、この家。。Oさんのおうちは津波により建物も被害も受けたそうですが。。それ以上に。。犠牲者が出たのだそうでした。。なんと。。これまでも ぬえたちは被災家屋に何度となく泊めて頂く機会がありました。当然その中には犠牲者のあったおうちもあったのだろうと思います。しかし、そういう事情はこちらからは聞きませんし、その家の主もあえてそのような話はしません。ぬえたちは自分たちの活動のために、協力してくださる方のおうちに泊めて頂く立場で、わざわざそのご家庭の事情に立ち入って伺うことは遠慮しなければなりません。。ときには家屋に被害があればその話題から震災当時の経験を教えて頂くこともないわけではありませんが、やはりその時でもあまり詳しい事情をこちらから伺うようなことはしたことがなく。。

そうして、じつはOさんご自身も震災のときは壮絶な体験をされたのだそうで。。津波から避難した中央公民館で火の海に囲まれ、同じように公民館に避難した400名以上の市民とともに孤立して、救助を呼ぶ術がなくなりました。。ところがその避難者の中にロンドンに留学していたご子息に「火の海 ダメかも がんばる」と携帯でメールを送り、これを見たロンドンの子息はツイッターで救助を求めました。「拡散お願いします。障害児児童施設の園長である私の母がその子供たち十数人と一緒に避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の3階にまだ取り残されています。下の階や外は津波で浸水し地上からは近寄れない模様。もし空からの救助が可能であれば子供たちだけでも助けてあげられませんでしょうか」

リツイートは瞬く間に拡散、これを見た、当時東京都副知事だった猪瀬直樹さんが東京の消防庁の幹部に相談を持ちかけ、すでに仙台まで行っていたヘリコプターを気仙沼に急行させることになり、翌朝全員が救助されることになった。。おそらく このブログを読んでくださっている方の中にもこの出来事を覚えておられる方もあろうと思いますが、この時 公民館に避難して、猪瀬氏によって差し向けられたヘリコプターによって救助された方の中に、このOさんも含まれていたのでした。

ちなみにOさんを紹介してくださった起業家の方もご実家がこのすぐ近くで。。このご実家も被災されて、取り壊し処分の対象となりました。ご実家が取り壊されるとき、カメラで毎日記録を残されたそうですが、建物がとうとう引き倒されたとき、この方は泣きじゃくりながら帰ったのだと、ぬえに教えてくれました。

このおうちは気仙沼南小学校のすぐそばで、その小学校もいまは取り壊されて更地になっています。このあたりから港の方面に行くには必要不可欠な、大川にかかる橋がありますが、じつは南小の前にも小さな橋があったのだそう。南気仙沼駅の方向から南小に通う小学生の通学路となっていたその橋は。。津波で流されてしまったのだそうです。何度となくこのあたりに通い続けている ぬえにもその橋の話は初めて聞いたもので、そっとOさんのおうちを出て大川に向かってみると、堤防に小さな小さな、3段ばかりの階段が残っていました。。

季節の「戻り鰹」や当地の名物「もうかの星」も並んだ豪華な朝食を頂き、早朝に到着した夜行バスの疲れを癒す場のはずでしたが、なんとも重い気持ちにもなり。。それでも明るいOさんたちと談笑しているうちにもう陸前高田へ出かける時間が近づき。。ぬえたちはOさんのお宅の一室に飾られた遺影にご焼香させて頂き、陸前高田に向けてOさんの運転で出発しました。

猪瀬直樹氏のブログ

気仙沼→ロンドン→猪瀬副知事 ツイッターによる救出劇


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1 コメント

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お疲れさんです (緑さん)
2013-11-23 07:56:57
今回も色々気づかれてたんですね~。
いろんな所を歩くと、
その場
その人
それぞれにドラマがありますからね~。

私は
私だけじゃ~無いと自分に言い聞かせて生きてますが
正直、つらいもんは
つらいです。

だからこそ
一時でも、それを忘れられる時間は大事なんです。


だから、追っかけしてるのかも…
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