やがて会場の「ひまわり集会所」にピアニストの御子柴聖子さん、今回はじめて共演をお願いしたフルートの内野浩乃ちゃんが到着。大雨の中、まずは上演準備を進めて、それから上演時間も迫ったところでミーティング。
本当は星降る空の下で上演したかった「能とピアノの夕べ」公演ですが、仮設住宅の集会所に会場が変更になったことで、少しく計画を変更することとしました。。その前に、ピアニストの御子柴さんとフルートの内野さんが事前に会ってこの日の演奏曲の選定と練習をしてくださった際に、御子柴さんから「今回は最後に復興ソングの『花は咲く』を入れてもいいですか?」と、わざわざ ぬえに問い合わせを頂きました。
いえ~? 「星と能楽の夕べ」公演でもこの「能とピアノの夕べ」公演でも、ぬえから選曲の指定をしたことはなく、ぬえは上演の全体のイメージを伝える程度で、あとは御子柴さんにお任せしています。ぬえにはそれほどクラシックの曲について知識があるわけでもないし、まして公演のプロデュースのようなことはしても、ぬえは自分が出演していない部分の細部にまで口を出すような立場でもありませんし。だから毎度 御子柴さんから「こういう曲をやろうと思っています」と言われても ぬえは口をポカンと開けたまま、ただ「ロマンチックにお願いします。。」と言うばかり。。(^◇^;) でもこの度は、『花は咲く』を演っても良いですか? と御子柴さんから珍しく相談のような連絡が来て、ぬえはそこから どんどん夢が膨らんできました。
ぬえはねえ、本音を言わせて頂ければ、震災の年に生まれたこういうもの。。「絆」という言葉とか復興ソングの類には どうもずっと違和感を持っていて。。好きになれずにいました。なんだか現実に起こっている惨状とはまったく別の次元の。。机の上だけで生み出された物のような気がして。それは、当時すでに自分が身体を動かして活動していたから そう思った、というような虚栄心ではなくて、ぬえたちの活動がまったく手探り状態で、活動の受け入れ先を探すだけでも大変だった時期があったからかもしれません。当時は東京のスケジュールを やり繰りして1週間東北に滞在する予定を立てたのに、出発3日前になっても活動の受け入れが決まったのは1カ所の避難所だけ。。という事もありました。この時はホント、泣きそうでした。笛のTさんに少し早めに現地入りしてもらって直接交渉をしたり、ぬえが到着してから飛び込みで出演のお願いをしたり。。こうして活動スケジュールを埋めることが出来、そこから活動はどんどんと広がりを見せて行ったし、そのときの受け入れ先の方々とは現在でも交流が続いております。
こういう、何かをしたい、という思いひとつで手探りで単身被災地入りをしたボランティアさんは当時たくさんいましたね。ぬえたちは自分たちの活動の内容には自信はあったから、余計受け入れて頂けなかったのはつらかった。そんな時にテレビから流れるキャッチフレーズや復興ソングには、ぬえたちでは到底できない財力や人脈の豊富さが垣間見えるような気がして。。たぶんその「豊かさ」が ぬえの心に違和感。。いやむしろ反発のような感情を呼び起こしたのかも。。ただの嫉妬でしかなかったのかもしれません。
「絆」という言葉は、いつの間にか色褪せてしまったようですね。最近はちっとも聞かなくなった。でも『花は咲く』の方は、今でもよく耳にするし、いろいろな人がカバーするようになって。。定着するに従って ぬえの耳にあった違和感もいつの間にか消えてしまいました。そこで、御子柴さんからの提案を聞いた ぬえは即座に反応することができました。
なるほど「能とピアノの夕べ」公演は仮設住宅や仮設商店街で行う催しとは別のもの。。もっとフォーマルでロマンチックな「公演」として ぬえは捉えていました。今回の活動場所は仮設住宅ではありましたが、ここには子どもたちの遊び場として建てられたメルヘンチックな建物があり、そうして開演は夕暮れ時で、上演会場は野外。だからプラネタリウムを現出させてその下で能を舞う「星と能楽の夕べ」と同じ次元で考えていたのですが、やはり仮設住宅での公演では住民さんと触れあう楽しい時間を共有するのが良いです。御子柴さんの提案はその視点に立ったもので、アットホームな雰囲気のコンサートを目指していました。これに ぬえはすぐに飛びついて、『花は咲く』の演奏をフィナーレに、という提案に賛成しました。
で、ぬえは夢をふくらませて、事前に花屋さんに寄って花束をいくつか作って頂いて、これを、そのフィナーレの『花は咲く』の最後に出演者から住民さんに配る、という計画を立てました。
この打合せ、照明や楽器、音響の設営までをすべて終えると、もう開演は目の前。。大雨の中、住民さんは集まってくださるかな~? という不安を感じる時間もなく、上演時間が迫ったので ぬえも装束を着ることにしました。
本当は星降る空の下で上演したかった「能とピアノの夕べ」公演ですが、仮設住宅の集会所に会場が変更になったことで、少しく計画を変更することとしました。。その前に、ピアニストの御子柴さんとフルートの内野さんが事前に会ってこの日の演奏曲の選定と練習をしてくださった際に、御子柴さんから「今回は最後に復興ソングの『花は咲く』を入れてもいいですか?」と、わざわざ ぬえに問い合わせを頂きました。
いえ~? 「星と能楽の夕べ」公演でもこの「能とピアノの夕べ」公演でも、ぬえから選曲の指定をしたことはなく、ぬえは上演の全体のイメージを伝える程度で、あとは御子柴さんにお任せしています。ぬえにはそれほどクラシックの曲について知識があるわけでもないし、まして公演のプロデュースのようなことはしても、ぬえは自分が出演していない部分の細部にまで口を出すような立場でもありませんし。だから毎度 御子柴さんから「こういう曲をやろうと思っています」と言われても ぬえは口をポカンと開けたまま、ただ「ロマンチックにお願いします。。」と言うばかり。。(^◇^;) でもこの度は、『花は咲く』を演っても良いですか? と御子柴さんから珍しく相談のような連絡が来て、ぬえはそこから どんどん夢が膨らんできました。
ぬえはねえ、本音を言わせて頂ければ、震災の年に生まれたこういうもの。。「絆」という言葉とか復興ソングの類には どうもずっと違和感を持っていて。。好きになれずにいました。なんだか現実に起こっている惨状とはまったく別の次元の。。机の上だけで生み出された物のような気がして。それは、当時すでに自分が身体を動かして活動していたから そう思った、というような虚栄心ではなくて、ぬえたちの活動がまったく手探り状態で、活動の受け入れ先を探すだけでも大変だった時期があったからかもしれません。当時は東京のスケジュールを やり繰りして1週間東北に滞在する予定を立てたのに、出発3日前になっても活動の受け入れが決まったのは1カ所の避難所だけ。。という事もありました。この時はホント、泣きそうでした。笛のTさんに少し早めに現地入りしてもらって直接交渉をしたり、ぬえが到着してから飛び込みで出演のお願いをしたり。。こうして活動スケジュールを埋めることが出来、そこから活動はどんどんと広がりを見せて行ったし、そのときの受け入れ先の方々とは現在でも交流が続いております。
こういう、何かをしたい、という思いひとつで手探りで単身被災地入りをしたボランティアさんは当時たくさんいましたね。ぬえたちは自分たちの活動の内容には自信はあったから、余計受け入れて頂けなかったのはつらかった。そんな時にテレビから流れるキャッチフレーズや復興ソングには、ぬえたちでは到底できない財力や人脈の豊富さが垣間見えるような気がして。。たぶんその「豊かさ」が ぬえの心に違和感。。いやむしろ反発のような感情を呼び起こしたのかも。。ただの嫉妬でしかなかったのかもしれません。
「絆」という言葉は、いつの間にか色褪せてしまったようですね。最近はちっとも聞かなくなった。でも『花は咲く』の方は、今でもよく耳にするし、いろいろな人がカバーするようになって。。定着するに従って ぬえの耳にあった違和感もいつの間にか消えてしまいました。そこで、御子柴さんからの提案を聞いた ぬえは即座に反応することができました。
なるほど「能とピアノの夕べ」公演は仮設住宅や仮設商店街で行う催しとは別のもの。。もっとフォーマルでロマンチックな「公演」として ぬえは捉えていました。今回の活動場所は仮設住宅ではありましたが、ここには子どもたちの遊び場として建てられたメルヘンチックな建物があり、そうして開演は夕暮れ時で、上演会場は野外。だからプラネタリウムを現出させてその下で能を舞う「星と能楽の夕べ」と同じ次元で考えていたのですが、やはり仮設住宅での公演では住民さんと触れあう楽しい時間を共有するのが良いです。御子柴さんの提案はその視点に立ったもので、アットホームな雰囲気のコンサートを目指していました。これに ぬえはすぐに飛びついて、『花は咲く』の演奏をフィナーレに、という提案に賛成しました。
で、ぬえは夢をふくらませて、事前に花屋さんに寄って花束をいくつか作って頂いて、これを、そのフィナーレの『花は咲く』の最後に出演者から住民さんに配る、という計画を立てました。
この打合せ、照明や楽器、音響の設営までをすべて終えると、もう開演は目の前。。大雨の中、住民さんは集まってくださるかな~? という不安を感じる時間もなく、上演時間が迫ったので ぬえも装束を着ることにしました。
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