松明を前に置いて「語り」となります。この「語り」は能の中でも屈指の残酷な内容。殺生禁断の川で鵜を使って密漁を重ねたためこれを憎む村人に捕らえられ、簀巻きにされて殺される模様を語る、というもので「一殺多生の理に任せ、彼を殺せと言ひあへり」とか「その時両の手を合わせ、かかる殺生禁断の所とも知らず候。向後の事をこそ心得候べけれとて、手を合わせ嘆き悲しめども助くる人も波の底に」とか、ともかく悲惨な内容なのです。「殺す」という直接的な言葉は、謡曲に限らず珍しいのではなかろうか。「死ぬ」という言葉も謡曲に限らず古典文学でも少ないはずで「世を去る」「空しくなる」「みまかる」が普通でしょうし、「殺す」というのは、そのような意味の用例もずっと少ないだろうし、それでも「討つ」「害する」「誅する」「(命を)取る」「失ふ」でしょう。(『雷電』に「蹴殺す」の用例があるけれど、ほかにはあるかしらん)
この「語り」が終わると、シテはワキに向き「その鵜使いの亡者にて候」と本性を明かします。『求塚』にも似た手法がある「語り」で、第三者について語っているうちに、いつの間にかそれが自分の身の上の物語にすり替わっている、という、これも戯曲として優れた技法だと思います…それだけに「語り」は迫真でなければならないでしょうし、そうでなければこの「語り」の意味そのものがなくなってしまう、と思うので、意外に難しい「語り」なのではないか、と思います。
稽古をしながら考えたのですが、そういえばこの曲の脚本にはほとんど破綻がありません。いやそれどころか、シテの心情(~罪を意識しながら誘惑に抗えずにその罪を止める事ができない弱い人間の運命~)を表す同じ内容の語句が能の底流にいつも流れているようにあちこちに散りばめてあって、常に観客の印象から薄れないように工夫されているように思います。前シテの登場の「一セイ」の謡で「げにや世の中を憂しと思はば捨つべきに、その心さらに夏川に、鵜使ふ事の面白さに殺生をするはかなさよ」は形を変えながら、ワキとの問答で「若年よりこの業にて身命を助かり候程に、今さら止まっつべうもなく候」と応じる事にも繋がり、「語り」のあとでワキに本性を明かして罪障懺悔のために鵜飼の業を見せるはずの「鵜之段」でさえも「面白の有様や。底にも見ゆる篝火に驚く魚を追い廻し潜き上げ抄ひ上げ暇なく魚を食ふ時は罪も報ひも後の世も忘れ果てて面白や」と、前シテを通じて人間の業というテーマを見失う事なく描き切っている。『鵜飼』は、切能としてもどうしても小品に数えられてしまって、軽い曲、というとらえ方をされてしまいがちですが、どうしてどうして、テーマが明確だ、と言う点では類曲の『阿漕』よりもはるかにシッカリした作品ではなかろうか。
「語り」のあとの「鵜之段」でシテは中入しますが、前述のように我を忘れて殺生を楽しむ姿から一転して「不思議やな」と気を替えて「篝火の燃えても影の暗くなるは」と松明を見上げてから正面の下の水底を見下ろし、「思ひ出でたり」と正面を見やって「月になりぬる」と左上に月を見上げて「悲しさよ」と正面向き、タラタラと下がりながら扇・松明の順に捨てて双ジオリをします。
「篝火の燃えても影の暗くなる」とは、鵜飼が松明の光で鮎を寄せて捕る漁法だからで、月が出る事によって水面の全体が明るくなってしまって松明の光が水に映らなくなる事を言います。これに続いて「鵜舟の篝影消えて闇路に帰るこの身の名残惜しさを如何にせん 名残惜しさを如何にせん」と小さく右に廻って常座でワキに向き二足ツメて、それから橋掛りへ行って中入となります。この部分も前シテの登場の「一セイ」の文句「鵜舟にともす篝火の後の闇路を如何にせん」と呼応していて(篝火が消えて真の闇になったとき、それはシテの生命の灯火が消える時を暗示し、殺生の業によって地獄に堕ちる定めを示唆します)、テーマの重さと叙情的な中入が、見る者に運命というものを感じさせずにはいられないと思います。
この「語り」が終わると、シテはワキに向き「その鵜使いの亡者にて候」と本性を明かします。『求塚』にも似た手法がある「語り」で、第三者について語っているうちに、いつの間にかそれが自分の身の上の物語にすり替わっている、という、これも戯曲として優れた技法だと思います…それだけに「語り」は迫真でなければならないでしょうし、そうでなければこの「語り」の意味そのものがなくなってしまう、と思うので、意外に難しい「語り」なのではないか、と思います。
稽古をしながら考えたのですが、そういえばこの曲の脚本にはほとんど破綻がありません。いやそれどころか、シテの心情(~罪を意識しながら誘惑に抗えずにその罪を止める事ができない弱い人間の運命~)を表す同じ内容の語句が能の底流にいつも流れているようにあちこちに散りばめてあって、常に観客の印象から薄れないように工夫されているように思います。前シテの登場の「一セイ」の謡で「げにや世の中を憂しと思はば捨つべきに、その心さらに夏川に、鵜使ふ事の面白さに殺生をするはかなさよ」は形を変えながら、ワキとの問答で「若年よりこの業にて身命を助かり候程に、今さら止まっつべうもなく候」と応じる事にも繋がり、「語り」のあとでワキに本性を明かして罪障懺悔のために鵜飼の業を見せるはずの「鵜之段」でさえも「面白の有様や。底にも見ゆる篝火に驚く魚を追い廻し潜き上げ抄ひ上げ暇なく魚を食ふ時は罪も報ひも後の世も忘れ果てて面白や」と、前シテを通じて人間の業というテーマを見失う事なく描き切っている。『鵜飼』は、切能としてもどうしても小品に数えられてしまって、軽い曲、というとらえ方をされてしまいがちですが、どうしてどうして、テーマが明確だ、と言う点では類曲の『阿漕』よりもはるかにシッカリした作品ではなかろうか。
「語り」のあとの「鵜之段」でシテは中入しますが、前述のように我を忘れて殺生を楽しむ姿から一転して「不思議やな」と気を替えて「篝火の燃えても影の暗くなるは」と松明を見上げてから正面の下の水底を見下ろし、「思ひ出でたり」と正面を見やって「月になりぬる」と左上に月を見上げて「悲しさよ」と正面向き、タラタラと下がりながら扇・松明の順に捨てて双ジオリをします。
「篝火の燃えても影の暗くなる」とは、鵜飼が松明の光で鮎を寄せて捕る漁法だからで、月が出る事によって水面の全体が明るくなってしまって松明の光が水に映らなくなる事を言います。これに続いて「鵜舟の篝影消えて闇路に帰るこの身の名残惜しさを如何にせん 名残惜しさを如何にせん」と小さく右に廻って常座でワキに向き二足ツメて、それから橋掛りへ行って中入となります。この部分も前シテの登場の「一セイ」の文句「鵜舟にともす篝火の後の闇路を如何にせん」と呼応していて(篝火が消えて真の闇になったとき、それはシテの生命の灯火が消える時を暗示し、殺生の業によって地獄に堕ちる定めを示唆します)、テーマの重さと叙情的な中入が、見る者に運命というものを感じさせずにはいられないと思います。