幽玄堂主人さんが「その2」に付けて下さったコメントへのレスのつもりだったのですが、興味深い内容なので新規記事にしました。
閻魔大王の本地は地蔵菩薩。。ふーむ無知な ぬえは知りませんでした。。『鵜飼』のテーマは「欲望に負ける弱い人間の業」だと思いますが、答えの出ないテーマだけを観客に突きつけておいて、曲自体は「超自然力による救済」で納めて終わりになる。能にはよく使われる脚本の手法ですが、だからこそ ぬえは後シテは獄卒だと考えた方が、実際には登場しない閻魔大王の「大きさ」が連想されるのではないか、と考えますねー。
たとえば『石橋』では、演者も観客も後シテの獅子の激しい舞に焦点を合わせてこの能を見るわけですが、お客さまは獅子の演技の切れを楽しみになさいますし、演者も師匠から「そんなダラダラした舞じゃダメだ!」と叱られながら稽古をします。ところがある研究者が次のような事を言ったのを聞いて ぬえは愕然としてしまった。。
私は『石橋』で、なぜ後シテに獅子が登場するのか ずっと疑問に思っていま
した。これは言うなれば西部劇の映画でカウボーイが主役じゃなくて、それが
乗る「馬」が主役になっているようなものですから。。 この理由をずっと考え
ていたのですが、ある時にはたと気がつきました。
「『石橋』という能の作者は、後シテの獅子が激しく舞い狂ったあと、それが
去った静寂の中に「文殊菩薩の浄土の静謐な世界を現出させようとしたのでは
ないか?」
。。これは恐るべき卓見で、これが正解であるならば、シテが去ってから、お客さまが席を離れるまでの間に曲の本質がある、という事になってしまう。。演者も観客もそのどちらもが、舞台上に最後まで登場しないものを現出させるためにギリギリの緊張感を舞台と見所のあいだに構築して、じつはそれは作者が作った「仕掛け」に乗せられているのだ、という事になるのです。演者もそんな事は考えずに必死に身体を作って切れのある舞台になるように努めるし、お客さまもその派手な演技の舞台を固唾をのんで見守る。。でも作者の意図は、その能が終わった後にはじめて姿を現す。。その時には演者はすでに楽屋に引き上げていて、演者同士で挨拶を交わしたり、自分の演技を反省したりしているし、お客さまも長い観能に疲れた体を席から持ち上げて、家路につこうとしている、その時に、です。
ぬえはこのお話を聞いた時は総毛がよだつ思いでした。やっぱりこの国の文化はすごいなあ。。
程度の差こそあれ『鵜飼』にも、ぬえはそのような作者の「虚構」を感じます。まあ、この前シテは「密漁者」ふぜいなのですし、ここに閻魔大王が救済に現れた、と考えるよりも、その手下のひとりにしか過ぎない「獄卒」が現れる方がつりあいも取れるでしょう。なにより その「獄卒」でさえもが大きな救済の力を持っていると見せる事によって、地獄や閻魔大王そのものの大きさ=悪人を責め立てるばかりではない救済の力の大きさ=が暗示され、地獄と言えども極楽と表裏一体の関係にあって、さらに言えば仏の深遠な慈悲のようなものが観客に印象づけられる、と思うのです。この曲のテーマは「人間」にありながら、単純に神様仏様を登場させて大団円を迎えさせないあたりが、作者のすばらしい力量だと感じました。
閻魔大王の本地は地蔵菩薩。。ふーむ無知な ぬえは知りませんでした。。『鵜飼』のテーマは「欲望に負ける弱い人間の業」だと思いますが、答えの出ないテーマだけを観客に突きつけておいて、曲自体は「超自然力による救済」で納めて終わりになる。能にはよく使われる脚本の手法ですが、だからこそ ぬえは後シテは獄卒だと考えた方が、実際には登場しない閻魔大王の「大きさ」が連想されるのではないか、と考えますねー。
たとえば『石橋』では、演者も観客も後シテの獅子の激しい舞に焦点を合わせてこの能を見るわけですが、お客さまは獅子の演技の切れを楽しみになさいますし、演者も師匠から「そんなダラダラした舞じゃダメだ!」と叱られながら稽古をします。ところがある研究者が次のような事を言ったのを聞いて ぬえは愕然としてしまった。。
私は『石橋』で、なぜ後シテに獅子が登場するのか ずっと疑問に思っていま
した。これは言うなれば西部劇の映画でカウボーイが主役じゃなくて、それが
乗る「馬」が主役になっているようなものですから。。 この理由をずっと考え
ていたのですが、ある時にはたと気がつきました。
「『石橋』という能の作者は、後シテの獅子が激しく舞い狂ったあと、それが
去った静寂の中に「文殊菩薩の浄土の静謐な世界を現出させようとしたのでは
ないか?」
。。これは恐るべき卓見で、これが正解であるならば、シテが去ってから、お客さまが席を離れるまでの間に曲の本質がある、という事になってしまう。。演者も観客もそのどちらもが、舞台上に最後まで登場しないものを現出させるためにギリギリの緊張感を舞台と見所のあいだに構築して、じつはそれは作者が作った「仕掛け」に乗せられているのだ、という事になるのです。演者もそんな事は考えずに必死に身体を作って切れのある舞台になるように努めるし、お客さまもその派手な演技の舞台を固唾をのんで見守る。。でも作者の意図は、その能が終わった後にはじめて姿を現す。。その時には演者はすでに楽屋に引き上げていて、演者同士で挨拶を交わしたり、自分の演技を反省したりしているし、お客さまも長い観能に疲れた体を席から持ち上げて、家路につこうとしている、その時に、です。
ぬえはこのお話を聞いた時は総毛がよだつ思いでした。やっぱりこの国の文化はすごいなあ。。
程度の差こそあれ『鵜飼』にも、ぬえはそのような作者の「虚構」を感じます。まあ、この前シテは「密漁者」ふぜいなのですし、ここに閻魔大王が救済に現れた、と考えるよりも、その手下のひとりにしか過ぎない「獄卒」が現れる方がつりあいも取れるでしょう。なにより その「獄卒」でさえもが大きな救済の力を持っていると見せる事によって、地獄や閻魔大王そのものの大きさ=悪人を責め立てるばかりではない救済の力の大きさ=が暗示され、地獄と言えども極楽と表裏一体の関係にあって、さらに言えば仏の深遠な慈悲のようなものが観客に印象づけられる、と思うのです。この曲のテーマは「人間」にありながら、単純に神様仏様を登場させて大団円を迎えさせないあたりが、作者のすばらしい力量だと感じました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます