ところで中入の「鵜之段」は仕舞にもなっている仕方どころですが、前シテがこのような仕方話をする、というのは能の中ではきわめて異例です。それはこの能がいわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる体裁を取っていながら前シテが後シテの化身ではなく別の役柄であるためで、こういう脚本の能では後シテの役柄と直接結びつかない前シテの場面にもある種のクライマックスが必要で、中入までに演技が完結されなければならないからです。こういう能は意外に例が多くて、『朝長』『船弁慶』『昭君』『天鼓』『藤戸』などがそれに当たります。これらの能では前シテも舞を舞ったり、また深刻な内容の居グセや語りをするなど、必ず何らかの見せ場があります。
本曲の「鵜之段」では半開きにした扇を左手に持って、前へ投げるようにパラッと開く型から始まります。川面に鵜を放す心なのですが、むしろ投網を投げる、というつもりで ぬえはやっています。それから松明を振りかざしながら水底を見込み、シテ自身も水の中に入った心で両手で正面に魚を追い(師家では右手の松明だけで追うのが型ですが、今回は両手で追うつもり)、逃げまどい一カ所に集まった魚を扇ですくい上げ、「罪も報ひも後の世も」と右に廻って常座で正へヒラキ、「忘れ果てて面白や」と扇で膝を打ってワキを見込みます。ここから型は少し静まって、松明を振りながら正面へ出て再び水底を見込んで右左と面を使ってさらなる獲物を求めます。
。。すると、突然水底の魚影が見えなくなった事に気づき、訝しく思う心で「不思議やな」と思わず二足下がり、「篝火の燃えても」と松明を高く掲げてその火を見、「影の暗くなるは」とそのまま正面の下の方の川面を見、「思い出でたり」と右手を下ろして正面へ向き直し、「月になりぬる」と月がのぼったのを左上にぼんやりと見やり、「悲しさよ」と正面に向いて力なく下がりながら扇、松明の順に捨てて、双ジオリをします。「鵜舟の篝影消えて闇路に帰るこの身の名残惜しさを如何にせん」と両手を下ろして静かに右へ廻り、常座でワキへツメて、返シで右にトリ幕へ引きます。
「鵜之段」の冒頭の扇を投げるように開く型がすでに能の中では珍しい型なのですが、その後もちょっと他の能では例を見ないような定型に外れたリアルな型が連続します。ああ、そういえば書生時代にはじめて「鵜之段」の仕舞のお稽古を受けたときには まるっきり型が出来ずに師匠に怒られた事を思い出した。。
シテが中入すると、間狂言が再び登場して(能の冒頭でワキに 川崎の御堂に泊まる事を勧めたアイは、以後ずっと橋掛り一之松の狂言座で待機しています)ワキと問答し、ワキからこの川で禁漁を犯して殺された鵜使いの事を尋ねられて、その詳細を語ります。
間狂言でもっとも多い類型は、その能の事件が起こった土地の里人が「この土地に住んでいるが詳しい事は知らない。しかしお尋ねなのであらまし知っている事だけお話ししよう」と言って物語をワキに聞かせる、というものでしょう。『鵜飼』でも同じパターンを踏襲してはいるのですが、禁漁を犯した鵜使いが殺されたのは最近の事なので(ワキツレが二~三年前に生前の鵜使いに会っている)、間狂言の里人も実際に目前で体験した事件として物語をします。
ところで面白い事に、狂言の山本家では「この村で起こった事件」として客観的に語るのではなくて、村人が捕らえた鵜使いの処遇について話し合っている時に、この漁師を殺そう、と提案したのは自分だ、と かなり突っ込んだ表現の語りをなさるようです。語りの最後も「殺した事によってこの土地の法が守られたのだから良い事をしたと思っている」となっていて、凄惨なこの能の前場の雰囲気に合わせて作られています。
今回の梅若研能会では、この山本家の間狂言が聞かれます。ぬえも期待しているのですが、狂言のお家でも間狂言の語りには何通りかの「語り」がある事もあって、この内容ではない場合もありますが。。
本曲の「鵜之段」では半開きにした扇を左手に持って、前へ投げるようにパラッと開く型から始まります。川面に鵜を放す心なのですが、むしろ投網を投げる、というつもりで ぬえはやっています。それから松明を振りかざしながら水底を見込み、シテ自身も水の中に入った心で両手で正面に魚を追い(師家では右手の松明だけで追うのが型ですが、今回は両手で追うつもり)、逃げまどい一カ所に集まった魚を扇ですくい上げ、「罪も報ひも後の世も」と右に廻って常座で正へヒラキ、「忘れ果てて面白や」と扇で膝を打ってワキを見込みます。ここから型は少し静まって、松明を振りながら正面へ出て再び水底を見込んで右左と面を使ってさらなる獲物を求めます。
。。すると、突然水底の魚影が見えなくなった事に気づき、訝しく思う心で「不思議やな」と思わず二足下がり、「篝火の燃えても」と松明を高く掲げてその火を見、「影の暗くなるは」とそのまま正面の下の方の川面を見、「思い出でたり」と右手を下ろして正面へ向き直し、「月になりぬる」と月がのぼったのを左上にぼんやりと見やり、「悲しさよ」と正面に向いて力なく下がりながら扇、松明の順に捨てて、双ジオリをします。「鵜舟の篝影消えて闇路に帰るこの身の名残惜しさを如何にせん」と両手を下ろして静かに右へ廻り、常座でワキへツメて、返シで右にトリ幕へ引きます。
「鵜之段」の冒頭の扇を投げるように開く型がすでに能の中では珍しい型なのですが、その後もちょっと他の能では例を見ないような定型に外れたリアルな型が連続します。ああ、そういえば書生時代にはじめて「鵜之段」の仕舞のお稽古を受けたときには まるっきり型が出来ずに師匠に怒られた事を思い出した。。
シテが中入すると、間狂言が再び登場して(能の冒頭でワキに 川崎の御堂に泊まる事を勧めたアイは、以後ずっと橋掛り一之松の狂言座で待機しています)ワキと問答し、ワキからこの川で禁漁を犯して殺された鵜使いの事を尋ねられて、その詳細を語ります。
間狂言でもっとも多い類型は、その能の事件が起こった土地の里人が「この土地に住んでいるが詳しい事は知らない。しかしお尋ねなのであらまし知っている事だけお話ししよう」と言って物語をワキに聞かせる、というものでしょう。『鵜飼』でも同じパターンを踏襲してはいるのですが、禁漁を犯した鵜使いが殺されたのは最近の事なので(ワキツレが二~三年前に生前の鵜使いに会っている)、間狂言の里人も実際に目前で体験した事件として物語をします。
ところで面白い事に、狂言の山本家では「この村で起こった事件」として客観的に語るのではなくて、村人が捕らえた鵜使いの処遇について話し合っている時に、この漁師を殺そう、と提案したのは自分だ、と かなり突っ込んだ表現の語りをなさるようです。語りの最後も「殺した事によってこの土地の法が守られたのだから良い事をしたと思っている」となっていて、凄惨なこの能の前場の雰囲気に合わせて作られています。
今回の梅若研能会では、この山本家の間狂言が聞かれます。ぬえも期待しているのですが、狂言のお家でも間狂言の語りには何通りかの「語り」がある事もあって、この内容ではない場合もありますが。。