ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『鵜飼』(その7)

2006-02-10 14:20:22 | 能楽
早笛で登場した後シテは橋掛り一之松に止まり「それ地獄遠きにあらず」と謡い出します。こういう強い曲では一之松に登場してヒラキをした両手をすぐには下ろさず、三句謡ってから下ろすキマリになっています。「江河に漁ってその罪おびたたし」と右にウケ、「金紙を汚す事もなく」と扇を大きく正面に出して見込みます。この「金紙」というのは亡者の生前の行いのうち善行を閻魔庁で記録しておくもので、悪行は「鉄札」に書き記します。死後の審判はこの「閻魔帳」によっておこなわれる、とされています。「されば鉄札数を尽くし、金紙を汚す事もなく」と後シテが言うので、殺生を重ねた漁師には善行は一つもなかった、というわけです。

「無間の底に堕罪すべかっしを」と拍子を踏み、「一僧一宿の功力に引かれ」と左袖を返してワキを見込み、「急ぎ仏所に送らんと」と左を引いて右手で改めてワキへキメ、「悪鬼心を和らげて」と正面へ直しながら袖を払い(少し気もゆるめて)、「鵜舟を弘誓の船になし」のおわり頃より左へトリ舞台に向かいます。「法華の利益の救け船」と舞台の中央のあたりでサシ、「篝火も浮かむ」と見廻しながら常座へ立ち戻り「気色かな」と正面へヒラキ、すぐに角へ出て正面へ直します。

このあたりは謡の分量と比べてかなり型が多くて忙しいかぎり。それよりも大変なのは太鼓の手が謡に合うように付けられているので、太鼓の手と型が合いにくいのです。そこで太鼓方とは稽古能ではとりあえず常寸通りに謡を基準にして打って頂いたところ、やはり型と合わない。聞いてみると「ここは謡が伸びる事があって、その時は少しこちらも寸法を延ばします」というお返事で、やはり他の演者も同じ苦労がある様子。謡を伸ばして型に合わせているのだろうけれど、ぬえはちょっと考え方を変えて、太鼓の方には申合では謡は参考にしながら、型を基準にして打って頂くようお願いしました。

申合でこれをやってみたところ、うまく型と合うようです。聞いてみると型に合わせたからといって太鼓の手も極端に伸びてしまうわけではないらしいので、当日もこのやり方で打って頂くようお願いしました。稽古能と申合でやり方を実験してみて良い結果が得られたのは結構なことで、太鼓を打ってくれるKくんも非常に柔軟に対応してくれるのでありがたい事です。それにしてもK君はうまい。こういう方とご一緒できるとおシテも安心して舞えるでしょうね。

ここでようやく地謡が謡い始め、「迷いの多き浮き雲も」と左へ廻り舞台正中にて正へ向き「実相の風 荒く吹いて」とヒラキ、左袖を頭に返し(唐冠を壊す恐れがあるので、狩衣の場合は背中に返すようにはしていますが。。)、「千里が外も雲晴れて」と上を面切り見廻し、「真如の月や出でぬらん」と上をサシて月を見る心で角へ出、左をカケて常座へ戻り、正面へ小廻リヒラキ。

普通の切能ならばここで「舞働」となり、キリも太鼓が入った大ノリの謡になるのですが、『鵜飼』では太鼓が打つのはここまでで、あとは大小鼓による平ノリのロンギとなります。『高砂』などにもある手法で、現代では太鼓が打ち止めてしまうと何となく寂しく感じるのですが、稽古の段階で考えてみると、おそらく舞働~大ノリのキリでは『船弁慶』や『土蜘蛛』のように強く、激しくなり過ぎてしまうので、それをあえて避けたのでしょう。キリの内容は法華経の賛美で、型も難しい足拍子が連続していて、これまた「速さ」よりも「大きさ」を表現する事が演者に求められているのだと思いますね。ちなみに『鵜飼』のもう一つの小書「真如之月」では舞が入るのですが、これも舞働ではなくドッシリとした「立廻り」です。「空ノ働」の小書といい、仏法礼賛、真理の番人としての「悪鬼」。ここを見誤ると『鵜飼』の能は間違ってしまうのでしょう。

「唯一乗の徳によりて、奈落に沈み果てて浮かみ難き悪人を」と飛び安座があり、「仏果を得ん事は」と右下を扇で一つ打って「この経の力ならずや」と左袖を返してワキへキメ、「これを見彼を聞く時は」と袖を払い扇を開いてユウケン扇を二つしながら立ち上がり、角へ行き左へ廻り、正中にてワキへ胸ザシ「仏果菩提に到るべし」とヒラキにてワキを見込み、「げに往来の利益こそ」と正へサシ(こういうところは面は切らずに)、角より常座へ至り小廻リ、「他を済くべき力なれ」と定型にて右ウケてトメ拍子を踏み、幕へ引きます。

「大きさ」を求められながら、作品自体は小品、それに後シテの分量がやや あっさりとし過ぎているかな? とは思いますが、面白い曲ではあると思います。興味深い小書もあるし、演技の幅を許す曲なのでしょう。

最後に、稽古していて思ったのは、『鵜飼』という曲はほとんどと言って良いほど脚本に破綻や齟齬がないと感心させられました。それどころか「欲望に負ける弱い人間」を徹底的に前シテで描いていて、そこ彼処にこの漁師の人間的な弱さを観客に印象づける仕組みが用意されている。とても脚本に統一感があります。そして後シテが超自然的な力でそれを救済するという脚本も、「神様を出してしまえば大団円」という宗教劇が持つ弱点に納まるのではなくて、人間の原罪のような、答えが出るはずもないテーマを描き出した前シテの物語を収集するのに、最も適した手段だったのかも知れないな、とも思えます。やはりこの作者は非凡ではあるまい。ぬえは「榎並の左衛門五郎の原作を世阿弥が改作」、という『申楽談儀』の記事には再検討の余地があると思います。作者は一人だと思いますね。

明日は ぬえ、この『鵜飼』を勤めて参ります。とっても楽しみにしていますー 明日天気になーれ(*^_^*)

『鵜飼』(その6)

2006-02-10 11:36:17 | 能楽
昨日無事に『鵜飼』の申合が終わり、あとは当日を待つのみとなりました。トリノ・オリンピックの開会式をつい、ライブで見ちゃってから研能会にお出でになる方。。やっぱりあるんだろうなあ。。当日は『箙』『西行桜』『鵜飼』の三番能なので。。夜更かしはあまりお勧めできませんー。

お装束は前シテが無地熨斗目に鉄色のようなちょっと変わった色合いの水衣、腰蓑、尉髪です。中啓は「鵜之段」でパラリと開かなければならないので、具合の良い尉扇を ぬえ所蔵品から持参し、尉髪は「鵜之段」での激しい動作で乱れないようにちょっと工夫するつもりです。後は黒地の袷狩衣、赤地半切、唐冠、修羅扇。赤頭と厚板は ぬえの所蔵品です。『鵜飼』のように安座をする曲では半切に良いものは使えないのですよねー。いっぺんでおしょうぞくが痛んじゃう。。今回も半切はあまり上等ではないものを拝借する事にしました。面は当日のお楽しみになりまする。
                                           ヘ(^.^)/

さて間狂言が終わるとワキの待謡になりますが、この待謡は珍しいものでおワキは読経しているのではなくて、河原の石に経文を書き付けて川に沈める、としいう文句です。経文と言いましたが本文では「妙なる法の御経を一石に一字書きつけて」となっているので、「南無妙法蓮華経」の七字を書きつけた事が印象づけられ、これまたおワキが日蓮である事が示唆されているのかも。

後シテは「早笛」で登場します。龍神などの登場でもよく演奏される早笛ですが、曲によりその「位」は区別されて演奏され、お囃子方はこういうところが苦心のしどころなのですが、『鵜飼』ではあまり速くは演奏しません。この曲では「俊敏さ」「力強さ」よりも「大きさ」「重厚さ」を表現するよう、各役でもそれぞれの師匠から稽古を受けていますし、各自が催しに向けて稽古をしていますので、申合ではその程度の摺り合わせをする作業が主な目的になります。昨日の申合では特に不具合なく進行しました。

後シテの役柄は作品研究や解説などを見ても「閻魔大王」とされていて、また観世流の謡本の前付けにもそのように書いてあるのですが、じつは本文にはそのような事は一言も書かれていないのです。「早笛はシッカリと演奏する」という実演上の約束も、おそらく後シテが「閻魔大王」だという理解から来ているのだと思いますが、ぬえはこの後シテは「閻魔」ではなく「冥官の鬼神」という程度であろうと思っています。地獄の獄卒ですな。「閻魔大王」自身が登場する、というよりは、その配下の冥府の官吏でしょう。

だからといって「位」は早めた方が良いというものでもなく、現在の位が「冥官」にも当てはまると思うので、お囃子方にどうこう、と意見を言ったワケではありません。これはまあ、この度のシテのお役を ぬえはそのつもりで勤めさせて頂く、という心構えのようなものでしょうか。型としては「重厚なところもあり、また場面により俊敏になるべきところもあり」というつもりで稽古していました。実際、後シテが登場して橋掛り一之松に止まると しばらくはその場で型があるのですが、文句と比べてかなり型が忙しいのです。どうも「冥府の長」という印象ではない、と思うのは ぬえばかりかしらん。

もっとも『鵜飼』には「空ノ働=むなのはたらき」という珍しい小書があって、この時は後シテは登場するとすぐ舞台の真ん中にどっかりと安座して、なんと! キリまでそのまま動かず、「これを見彼を聞く時は」と立ち上がって地謡のうちに退場してしまうのです(!!) まったく演技というものがない 恐るべき小書で、演者にとっては とんでもない至難な小書でしょう。ともあれ ぬえはこの小書こそ「閻魔大王」の役にふさわしいと思うので、あるいは先人もこの曲の後シテの役柄について疑問があって、「空ノ働」の小書を作る事によってふた通りの演じ方を残したのかも知れない、などと想像を巡らせました。