心理描写よりも情景の描写に比重が多くかかる、これが『邯鄲』の、目立たないけれど、ほかの能と大きく違う点なのではないか、ぬえはそう思っています。それは、自分でも思わぬ帝位という境遇にいきなり放り出されるシテ自身の立場の激動、というこの能の特色そのものの故に必然的に導き出される舞台経過なのですが、この理由のためにシテの演技は心理の内面を濃密に描くよりも、むしろ呆然と経過を見守る、いわば消極的な演技に終始せざるを得ないことになります。
これが子方の舞童の舞を見ているうちに段々と我を忘れて、自らのために設えられた饗宴の快楽の中に埋没してゆく。。これがこの能に仕組まれた仕掛けでしょう。このシテの心情は取りも直さずお客さまの心情であって、夢の中でいきなり帝位に就く非現実感を、子方の舞の美しさをもって曖昧なものとし、その地点から夢と現実との端境を、シテの心情からも、お客さまのそれからも消し去る、という手法なのではないかと思います。考えてみれば『邯鄲』の舞台進行上で子方を出す必然性は必ずしもないわけで、子方の存在は、その舞が衆目の興味を集めると同時に、その前後の舞台進行とは切り取られた、別の興味をもって見られるべきもので、台本に現れるシテを巡る非現実な状況を、現実世界と錯覚させる。。それはシテにとってもお客さまにとっても。。ための、ひとつの仕掛けなのだと考えることができるのです。
こうして初めてシテが夢の世界から急転直下、現実の世界。。邯鄲の宿屋の一室。。に戻される場面は印象的になるのであって、いうなればこの能は、この大転換の場面ひとつのためにそれまでの演出が用意されていると考えることができます。
そこで作物の位置が重要になってくるのですが、子方とワキツレが突然座を蹴って立ち上がるように舞台から姿を消し、その代わりにシテが宮殿であったはずの一畳台に飛び込む。。作物はその瞬間に宮殿から邯鄲の宿屋の寝台へと瞬間的に変化する。。この場面の表現には、作物はやはり脇座に置かれているのが最も効果的なのです。
仮に大小前に作物が置かれたとして、それならば台の上の「楽」の視覚的効果は、脇座に作物が置かれてある場合とさほど変わらないと思います。むしろ廷臣が集っている宮殿の豪華壮麗な有様を表現するには、シテがそれらの中心、大小前に座している方がはるかに有利であるはずです。そうして、脇座に作物が置かれた現行の演出の場合では、前述のように横臥する型では正面に頭頂しか見せないことになり、大小前に置かれた場合より不利であるのも明白。
それではなぜ作物が脇座に出されるか、ということなのですが、これは稽古を重ねた ぬえの印象としては、ひとえにこの急展開の場面ひとつに最大の効果を得るための必要にして不可欠な条件だったのではないかと思うのです。
大小前に置かれた作物の中に、突然夢が覚める、という舞台展開のためにシテが横臥するには正面に背を向けたままで型をせねばならず、さらにそのうえ、そのシテの動線を考えると、子方やワキツレはシテの演技の前か後かに舞台から消え去らねばならず、これらの型を同時に行うには無理が生じます。これらのシテや子方、ワキツレの型を同時に処理し、一瞬のうちに宮廷の情景が霧消するという舞台効果をあらわすには、作物は大小前ではなく、脇座に置かれていなければならない。。それは台本の詞章が成立当初から現行とほとんど変化がない場合、作者が最初から導き出したであろう、必然的な演出だったのではないかと思うのです。
これが子方の舞童の舞を見ているうちに段々と我を忘れて、自らのために設えられた饗宴の快楽の中に埋没してゆく。。これがこの能に仕組まれた仕掛けでしょう。このシテの心情は取りも直さずお客さまの心情であって、夢の中でいきなり帝位に就く非現実感を、子方の舞の美しさをもって曖昧なものとし、その地点から夢と現実との端境を、シテの心情からも、お客さまのそれからも消し去る、という手法なのではないかと思います。考えてみれば『邯鄲』の舞台進行上で子方を出す必然性は必ずしもないわけで、子方の存在は、その舞が衆目の興味を集めると同時に、その前後の舞台進行とは切り取られた、別の興味をもって見られるべきもので、台本に現れるシテを巡る非現実な状況を、現実世界と錯覚させる。。それはシテにとってもお客さまにとっても。。ための、ひとつの仕掛けなのだと考えることができるのです。
こうして初めてシテが夢の世界から急転直下、現実の世界。。邯鄲の宿屋の一室。。に戻される場面は印象的になるのであって、いうなればこの能は、この大転換の場面ひとつのためにそれまでの演出が用意されていると考えることができます。
そこで作物の位置が重要になってくるのですが、子方とワキツレが突然座を蹴って立ち上がるように舞台から姿を消し、その代わりにシテが宮殿であったはずの一畳台に飛び込む。。作物はその瞬間に宮殿から邯鄲の宿屋の寝台へと瞬間的に変化する。。この場面の表現には、作物はやはり脇座に置かれているのが最も効果的なのです。
仮に大小前に作物が置かれたとして、それならば台の上の「楽」の視覚的効果は、脇座に作物が置かれてある場合とさほど変わらないと思います。むしろ廷臣が集っている宮殿の豪華壮麗な有様を表現するには、シテがそれらの中心、大小前に座している方がはるかに有利であるはずです。そうして、脇座に作物が置かれた現行の演出の場合では、前述のように横臥する型では正面に頭頂しか見せないことになり、大小前に置かれた場合より不利であるのも明白。
それではなぜ作物が脇座に出されるか、ということなのですが、これは稽古を重ねた ぬえの印象としては、ひとえにこの急展開の場面ひとつに最大の効果を得るための必要にして不可欠な条件だったのではないかと思うのです。
大小前に置かれた作物の中に、突然夢が覚める、という舞台展開のためにシテが横臥するには正面に背を向けたままで型をせねばならず、さらにそのうえ、そのシテの動線を考えると、子方やワキツレはシテの演技の前か後かに舞台から消え去らねばならず、これらの型を同時に行うには無理が生じます。これらのシテや子方、ワキツレの型を同時に処理し、一瞬のうちに宮廷の情景が霧消するという舞台効果をあらわすには、作物は大小前ではなく、脇座に置かれていなければならない。。それは台本の詞章が成立当初から現行とほとんど変化がない場合、作者が最初から導き出したであろう、必然的な演出だったのではないかと思うのです。