のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

天皇

2012年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム

 日本で「天皇」と言う言葉が用いられたのは聖徳太子の頃から持統天皇(女帝)の間といわれていますので、7世紀初めから7世紀末のことだと思います。 

 もちろん「天皇」と言う呼び方が音読みであることから外来語です。日本式の読み方なら、あまのすめらぎとでも読むのでしょうか?

 日本の天皇以前に中国にも天皇を名乗った人々がいました。中国の「史記」には三皇という伝説の三人の君主のことが書かれています。三皇とは天皇・地皇・泰皇を言います。泰皇といっても泰(タイ国)の王様ではありません。

 天地が初めてできた頃三人の君主が現れ、最初の君主が天皇だったそうです。さすがに歴史のある国なので、天地が初めてできた頃の王様については記述されています。天地ができて何億年も後になってモンゴル大陸に恐竜が群雄闊歩していたのですが、この時代王様は何をしていたのかなどは、記録されていないようです。兵馬俑は出てきても天皇の遺骨も化石も出てきていません。などと、大人気ない論議はしないようにしましょう。

 秦の始皇帝に称号をたてまつるときに識者が「いにしえに天皇あり、地皇あり、泰皇あり。最も尊しは泰皇」と泰皇と称すように進言したといいます。泰皇は人皇とも呼ばれています。

 実在の人物が天皇についたのは漢の時代の書物に出てきます。「越絶書」と言う書物に越の句践(こうせん)と言う王が「天皇」の位についたと言う記述があるそうです。

 唐の時代になると中国史上唯一の女帝となる則天武后が夫の高宗に天皇の名をたてまつり、自らは天后と名乗ります。高宗が天皇を名乗るのが674年ですから、日本では大化の改新(645年)から持統天皇が即位(686年)の間です。もしかしたら日本はもう天皇を名乗っていたかもしれません。

 則天武后は夫の天皇を押しのけ専権を振るったつわもの女房で、夫が死ぬと「天皇大帝」とおくりなをたてまつり、女房の尻に敷かれて死んでいった夫を神様に祭りたてます。夫の死から7年後権力を握った則天武后は中国史上唯一の女性皇帝となります。時は日本の女帝、持統天皇即位に遅れること4年の690年のことです。

 中国の歴史で天皇になった王はもう1人います。10世紀初頭に唐が滅亡し、宋の時代を迎えるまでの数十年間、各地に小国が乱立した五代十国時代に、今の広東省あたりに南漢(917~971年)と言う国が出現します。この南漢を打ち立てた高祖は在位すること30年。死後に「天皇大帝」のおくりなをつけます。

 越の句践については記述が確かなのかは確認されていませんが、唐の則天武后の亭主と、南漢の高祖は「天皇大帝」のおくりなを持っています。

 天皇大帝は道教の考えの中で、北極にいる最高神として崇められ、北極星を神格化したものだそうです。後に最高神の地位は元始天尊に変わったのですが、天皇大帝は元始天尊の元では宇宙の東を支配する神となりました。

 唐の時代には朝廷が道教を重んじたために則天武后は亭主を道教の神の1人天皇大帝になぞらえ神格化させたのでしょう。

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