のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

雪の夜の話

2014年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 これでもかと嫌がらせのように湿った重い雪が降り続き、峠では雪崩が起きて国道が封鎖で風雪なだれ旅状態。一晩で人の背丈も降れば雪崩も起きるでしょう。

 

 家の前の村道に除雪が来ないのなんざぁ織り込み済みですが、国道も自動車一台がやっと通れるようなありさまで、対向車が来たらすれ違うのにも一苦労。

 

 厳冬期の北風の雪なら蹴散らしながら歩けるんですが、今回のように≪里雪≫と呼ばれる湿った雪は水分たっぷりで重くて雪かきもままなりません。しかも地面は凍っていないので、ぐちゃぐちゃになります。これで冷え込むと厄介なことになります。

 

 雪かきだけが人生さ。三途の川で石を拾う亡者のごとく、かいてもかいてもすぐ降り積もる雪と格闘して一日が過ぎました。

 

 深夜、2kmほど離れたセブンイレブンに行ったら、食べるものが何もない。入荷のトラックが来られないみたいです。

 冷凍食品とアイスクリームが残っていたので、この大雪だもの誰だって買おうなんて気にはならないよな。と、消費者マインドもわからないでもありません。

 冷凍食品のお好み焼きとアイスクリーム買って、雪の中をとぼとぼと歩いて家に帰りました。

 

 雪は小降りになりましたが、風が強いので昼間の湿った雪ではなく、乾いた雪に変わりました。妙に懐かしい空気を感じて、二十数年前のことを思い出しながら家路を歩きました。

 

  昭和61年の3月23日の日曜だったと記憶していますが、久々に小学校以来の同級生に会う約束をしました。
 思想信条が全く異なるものの気が合う友人で、東京に出てきたばかりの頃はよく一緒にジャズの生演奏などを聴きに行ったものでした。
 
 思想信条の違いとは彼の親父さんが国家公務員で共産党系の組合運動などをしていた人だったので、当然せがれ達も影響を受けてギンギンの真っ赤か。彼も全学連の委員長などをやってきた人物でした。

 

 当然彼が選んだ仕事も組合関係の仕事で、役所勤めでどちらかというとこういう人たちの動きを警戒する役柄だった私とは社会に出てから会う機会も少なくなってしまいました。

 
 私が再び大学に行くことが決まり、しがらみもなくなったから久々に鍋でもつついて忌憚なく語り合おうと約束した再会でした。

 

 
 
 東京と言っても多摩地区に住んでいた彼は滅多に都心に出てくることもなく、たまたまこの日、彼は都心に出てくる用事があったために夕方新宿駅で待ち合わせをしました。

 

 が、湿った雪が降り積もるとんでもない日になってしまいました。雪国で生まれ育った我々にすれば雪の部類に入らない程度の振り方ですが、道路機能は麻痺し、地下鉄まで止まる状態。それどころか西武新宿線では電車が追突する事故があったりで、東京では記録的な雪の日になってしまいました。

 

 約束の時間より30分ほど遅れて頭に包帯を巻いた彼がやってきました。なにがあったのか聞いたのですが、「ちょっとした事故で」と話しにくそうだったのでそれ以上聞かないことにしました。

 
 彼が吉祥寺の居酒屋に予約を入れてくれていたのですが、大雪で中央線が止まってしまいました。
 幸い、井の頭線が動いているとの情報が入り、渋谷に出て下北沢経由で吉祥寺にたどり着くことができました。

 魚の鍋をつつきながら故郷のこと、同級生のこと、そして近況のことなどを話しました。

 

 高校生の頃、ロッキー青木と言う青年が単身USAに乗り込み、「紅花」と言うステーキの店で成功して一躍時の人となりました。受験地獄、詰め込み教育、就職難、息が詰まるような時代にこの型破りな男の生き方が輝いて見えたものでした。何より当時の日本の閉息感ときたら、世の中に出ようとする若者の芽を摘むような空気で、決められた一本のレールからはずれると二度と戻れなくなるような危機感を感じていました。
 なんの保証もないけれど、ゼロから始められるアメリカの自由が輝かしく思えたものでした。

 

 「アメリカに行ってひと花咲かせたいなぁ。」と彼はつぶやいた後、「でも、共産党員だと入国もままならないだろうな。」と続けました。

 

 すでにそのころアメリカどころか共産党員の聖地のソビエトまで行ってきた思想のない私。「だったら共産党なんかやめて堅気の人間に戻ればいいじゃないか。」とあしらってしまいましたが、「これはこれで居心地がいいんだよ。」と居場所を持つ彼にとっては抜け出られない何かがあったんでしょう。

 

 小学生の頃から「社会のためになりたい」が彼の信念だったのはよく理解していましたが、「世の中のためではなく自分の不平不満のために運動している人が多くなってきたことを感じる。」と共産党の裏側に対する不満を口にしていました。

 

 そのあと、左の人たちがたむろす吉祥寺の歌声喫茶「ともしび」にハシゴしました。最初の学生時代におねえちゃん目当てて新宿のともしびには何回か行ったことがありましたが、ああいう雰囲気って性分に合わない。
 そういえば、学生時代に彼と飲みに行ったときにも、新宿の文壇焼鳥屋なるところに連れて行かれて、ぜんぜん名前も知らない自称作家達がどんよりと集う店でスナギモ食いながらチューハイ飲まされました。こう言う娑婆とは一線隔てた肩書きのある店が好きなんでしょうね。

 彼は吉祥寺のともしびの常連さんだったのか、顔見知りが随分いるようで、注文もしないのにウイスキーのハイボールが出てきました。

 

 「実はね」と語り出した話は彼の頭の包帯の理由で、この日、彼が都心に出てきたのは全学連時代の後輩の女の子が帰郷するのを見送りい行ったからで、簡単に言えば密かに思いを寄せていたらしいのですが、電車の扉が閉まり動き出したとき”今までの思いを告げなければ!”と走り出したらホームの看板か何かに激突して側頭部を切ってしまったそうです。

 

 新幹線ならそんな人情に見向きもせず、きわめて冷徹に走り去っていたことでしょうが、左の人たちってこう言うところで結構ケチなんですね。おおかた青春18きっぷか何かで安く帰郷したんでしょう。

 

 こういう話で歌声喫茶なら「なごり雪」でしょう!と思っていたら彼のリクエストはソビエト歌謡の「樫の木」でした。ロシア語では樫の木を「Дубрава」と言って男性を象徴する木なんです。女性はナナカマドに例えられます。

よろこび胸に満ちて かたらいし
恋人よ森のみどりよ 樫の樹よ
幾度そぞろ歩く森の道
茂れる樹々はそよぎて われらむかう

 

幸は帰らずなりぬ 春はゆき
鳥かくれ空はくもりて たまはとぶ
戦に命すてぬ若者は
輝く二つの瞳 永久(とわ)に閉じぬ

 

ぐみの木茂る小路 人しらず
ただ一人ほまれにないて 静かに眠る
悲しく心せまる思い出よ
恋人よ森のみどりよ 樫の樹よ

 

 左の人たちは反戦を旗頭にしつつもロシア版の軍歌がお好きなようです。

 なぜこの心境でこの歌なのか?何か彼女との思いではある歌なのか?聞いてみたのですが、彼が加わっている市民コーラスで今練習している歌なんだと言うことで、意外とこういうことに考えを持たない男なんだなぁ。と、改めて発見しました。

 

 歌声喫茶ともしびを出た後、小金井市にある彼のアパートに行くことになりましたが中央本線は雪で止まっており、タクシーもつかまらない。

 駅にしてわずか4つ、山育ちの我々には気にならない雪。それなら、歩こうか!と、溶けかけてぐちゃぐちゃになった雪を踏みながら彼のアパートまで歩きました。

 

 そんなに昔のことではない思いもしますが、今の人生の半分の年齢でした。

 あの日から歳月が加速度を増すように過ぎていく思いもしています。今夜こうして雪の中を歩いていることもいつしか懐かしく思い出せるのだろうか?

 

 正月に帰郷した時に顔を合わせたばかりだけれど、妙に懐かしくなってしまったので、久々にこの懐かしきはらからに手紙を書いてみました。

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