傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

朝日新聞記事:家族の徘徊での責任どこまで?遺族に賠償命令!

2013-09-27 12:18:47 | 社会

27日 朝日新聞の記事『家族の責任、どこまで 徘徊中、線路に…遺族に賠償命令』で、認知症の父親が徘徊し、列車事故で死亡し、遺族に鉄道会社へ約720万の賠償命令の判決事案を取り上げています。
本事案については、本ブログ「認知症の親の「監視責任」を家族は負いきれない・・・他人事ではない!」(2013-09-01)でも取り上げ、”「認知症の親の鉄道事故判決の家族の「監視責任」は身近な問題で、もし老母が一人で出歩いて最寄の鉄道事故を起したら自分が「監視責任」を問われ損害賠償を負う羽目になったのです。」”と身近な問題を書きました。

朝日新聞の記事『家族の責任、どこまで 徘徊中、線路に…遺族に賠償命令』前書き(全文は付記に)は、
”「家を出て徘徊(はいかい)していた認知症の男性が線路内に入り、列車にはねられて亡くなった。この男性の遺族に対し、「事故を防止する責任があった」として、約720万円を鉄道会社に支払うよう命じる判決が出された。認知症の人を支える家族の責任を重くみた裁判所の判断。関係者には懸念の声が広がっている。 」”
と、家族の徘徊による事故の賠償と家族の介護責任の問題を提起しています。

記事によれば、

【事故までの経過】
00年 男性の認知症に家族が気づく
02年 長男の妻が男性宅近くへ転居 男性に要介護1の認定。
    ディサービスに通所開始
05,06年 夜中に2度徘徊
07年 要介護4、常に介護が必要な状態に
07年12月7日 事故当日
 午後4時半頃 男性がディサービスから帰宅、妻や長男の妻と
        お茶を飲む。
        長男の妻が玄関先へ片付けに、妻がまどろむ間に
        男性が外出
 午後5時頃  妻と長男の妻で、男性の散歩コースを捜すが
        見つからず
 午後5時47分頃 JR東海道共和駅で事故発生

【亡くなった男性と遺族の関係】

死亡男性
・愛知県在住
・責任能力なし
死亡男性の妻(賠償責任あり
・同居(当時要介護1
・身の回りの世話や就寝後の見守り

長男(賠償責任あり
・横浜市在住
・介護方針や体制を決定
・月に3回ほど訪問
長男の妻
・男性宅近くへ転居
・朝から男性や就寝まで介護や家事
次女(賠償責任なし)
・別居
・家族会義に参加せず
三女(賠償責任なし)
・別居
・月に2回ほど訪問し、介護を補助
次男(賠償責任なし)
・別居
・家族会義に参加せず

要介護4の父親は、ディサービス後、居間で妻や長男の妻とお茶を飲み寛いだ後、家族の一寸した隙に徘徊し、列車事故を起し、鉄道を遅延させ鉄道会社から損害賠償を請求された事案です。
判決は、長男は、介護方針の決定に主導的立場で「事実上の監督者」とし、在宅介護を続ける対策をとらなかったなどで「監督義務を怠らなかったと認められない」と判断されたと。

当方も、認知症の母親を24時間在宅介護時に、目を離した隙に外出された体験から、母親が勝手に外出しないように新に二重に鍵をつけたり、ドアの開閉時に音がでるような工夫をしてきたが、コンクリート製の四角の敷石を敷いてある地面から1メートル強の高さの出窓からは外出しないだろうと出窓には特別な措置はしませんでした。
 ある夜、母親を寝かせ、当方は隣の部屋で仮眠してたら、真夜中に叫び声で目覚め、母親は寝ていた居間におらず、捜すと出窓が開いており、窓から覗いたら母親が「痛い!、痛い!・・・」と仰向けに倒れており、片足は屈折した状態で、その姿を見た瞬間、「骨折している。救急車だ!」と思い、倒れている母親を抱き起こし、曲がってる足を静かに伸ばしたら、骨折している様子もなく、「何処が痛いか?」と問うと、コンクリート敷石に腰を強打した様子で腰周りを摩っていました。
そして、抱きかかえ居間まで連れて行き、寝ていた布団に寝かせ、「救急車を呼ぶか?」と問うと、「要らない、大丈夫」と言い、安堵したのか直ぐに寝入りました。翌日の昼頃まで寝ており、目覚めた母親に、「足は痛くないか?、腰は痛くないか?」と問うと、「何処もいたくない」と昨夜の飛び降りた騒ぎは忘却していました。
当方、翌朝、隣の家に、「夜中、オフクロが騒いで申し訳ありません」と謝罪し、ディサービス利用日であったので、事情説明しディサービスを欠席させました。
この事案からは、母親の寝ている側で仮眠するようにし、母親の言動に注意深くなり、休まる時間はディサービスの時間帯となりましたね。

記事では、長男に「事実上の監督者」「監督義務を怠った」とあるが、長男夫婦は自分の生活を犠牲にして父親の介護に時間を割いており、介護責任を問われるは酷だと思いましたね。
一方、認知症であろうが、父親が他人に迷惑をかけ家族に賠償請求されるのも通念上容認もできますので、記事にある「認知症に人の行動で他人に損害が生じうるのは事実。何らかの保険のような、補償の仕組みを考える必要があるのではないか」も一考かと思いますね。

最近、民放ワイドショーでも認知症が取り上げられ、認知症が国民病扱いになってきたことは哀しい現実ですね。
当方は、施設介護から在宅介護移行し地域社会で見守る潮流は否定はしないが、本ブログで、

”「日本社会は高齢少子の核家族になり、老老介護、認認介護の高齢世帯が増加基調の現下、家族に認知症の高齢者の「監視責任」を負わせることは家族に犠牲を強いることになり、社会の負の要素を拡大させ社会を活性の障害を増長させることになります。
社会の不活性の要因の一つは認知症で、家族的な社会的入院の環境整備が一考と思うこの頃です
。」”

と書き、在宅介護偏重には疑問で、家族的(ホスピタリティの精神の「提供者(ホスト)が利用者(ゲスト)と「喜びの共有」)な社会的入院・入所の環境整備が重要と思っています。
マアー、経済成長より老若男女が穏かに暮らせる社会を切望しますね。

[付記]

(1) 朝日新聞の記事『家族の責任、どこまで 徘徊中、線路に…遺族に賠償命令』の全文

”「家を出て徘徊(はいかい)していた認知症の男性が線路内に入り、列車にはねられて亡くなった。この男性の遺族に対し、「事故を防止する責任があった」として、約720万円を鉄道会社に支払うよう命じる判決が出された。認知症の人を支える家族の責任を重くみた裁判所の判断。関係者には懸念の声が広がっている。

妻がまどろんだ一瞬

事故は2007年12月に起きた。愛知県に住む当時91歳の男性が、JR東海道線の共和駅で、列車にはねられて死亡した。
男性は要介護4.身の回りの世話は、同居する当時85歳の妻と、介護のために横浜市から近所に移り住んだ長男の妻が担っていた。この男性が外に出たのは、長男の妻が玄関先に片付けに行き、男性の妻がまどろんだ、わずかな間のことだった。

男性はホームの端から数メートルの線路上に立っていたところ、列車にはねられた。線路に入った経路はわかっていない。事故で上下線20本が約2時間にわたって遅れた。
JR東海は、男性の妻と、横浜市で暮らす長男を含めた兄弟4人に対し、振り替え輸送の費用など損害約720万円の支払を求め、名古屋地裁に提訴した。
 JR側は、遺族には「事故を防止する義務があった」と主張。訴えられた遺族側は、徘徊歴は過去に2回だけで事故の予見はできなかった、などと反論した。

判決「見守り怠った」

今年8月に出された判決は、死亡した男性には「責任能力がなかった」とし、遺族のうち男性の妻と長男の2人に賠償責任を認めた。
 長男は、家族会義を開いて介護方針を決め、自分の妻に男性の介護を担わせていたことから、「事実上の監督者」と認定した。さらに徘徊歴や見守りの状況から事故は予見できた、と指摘。男性の認知症が進行しているのに、ヘルパーの手配など在宅介護を続ける対策をとらなかったなどとし、「監督義務を怠らなかったと認められない」と結論づけた。死亡男性の妻についてはも、「目を離さずに見守ることを怠った」とした。
 一方、他の兄弟は遠くに住むなどの事情で、家族会義に参加しないなど、介護に深く関与していなかったとし、責任を認めなかった。
 遺族代理人の畑井研吾弁護士は「介護の実態を無視した判決だ。認知症の人は閉じ込めるか、施設に入れるしかなくなる」と批判。長男らは名古屋高裁に控訴した。
 JR東海によると、飛び込み自殺などで運休や遅れが発生した場合は、損害を請求をするのが基本的な立場。ただ訴訟にまで発展するケースはここ数年は例がないという。
同社は「認知症の人の介護が大変だということは理解しているが、損害が発生している以上、請求する必要があると考えた」としている。

施錠しかないのか】 長男(63)のコメント

判決が指摘する「(出入り口の)センサーを切ったままにしていた」「ヘルパーを依頼すべきだった」といった事項を全て徹底しても、一瞬の隙なく監視することはできません。施錠・監禁、施設入居が残るのみです。父は住み慣れた自宅で生き生きと毎日を過ごしていましたが、それは許されないことになります。控訴審で頑張るしかないと思っています。


「補償の仕組み必要」 無施錠の施設、落胆>

65歳以上の高齢者のおよそ7人に1人が認知症と推計されている。家族や関係者にとって判決は重く響く。
 認知症の人と家族の会(本部・京都市)の高見国生代表理事は「あんな判決を出されたら家族をやってられない。責任をまるまる家族に負わせればいい、というのではダメだと思う」と判決を批判。一方で「認知症に人の行動で他人に損害が生じうるのは事実。何らかの保険のような、補償の仕組みを考える必要があるのではないか」と語る。
 NPO法人「暮らしネット・えん」(埼玉県)が運営するグループホームは、カギをかけず認知症の人が自由に出入りできる。本人のペースを大事にするためだ。外に出ようとしていれば職員が付き添う。ただ注意しても、気づかぬうちに利用者が外に出かける状況をゼロにはでいない。
無施錠の方針は監督責任のリスクと隣り合わせだ。小島美里代表理事は「(判決の考え片で)今まで積み重ねてきたことを無視された気持ちになる。怖くて、事業をやめたいとすら思う」と話す。
 「安心して徘徊できるまち」を目指す福岡県大牟田市。今月22日に、徘徊で行方不明者が出た想定などで恒例の訓練を実施した。井上泰人長寿社会推進課長は「徘徊者に声をかけるなど、地域で見守る意識を高めることが、ますます大事になる」と語る。
 認知症ケアが専門の柴田範子・東洋大学准教授は、徘徊事故防止に関して、鉄道という公共性の高い企業の責務を指摘する。「鉄道会社は認知症についてきちんと知っておくべきだ。その知識を踏まえて、駅や踏切で事故のリスクを軽減する対策を取ってほしい
」”

(2) 28日、朝日新聞の「天声人語」でも取り上げていますね。

”「横山秀夫さんの粒ぞろいの作品のなかでも、短編「動機」はひときわ光る。警察手帳の大量紛失という事件の顛末(てんまつ)を描く。
引き締まった筋立てに厚みを与えているのが、主人公とその父との関係だ
▼親子2代の警察官。母の死を機に父の心は壊れた。
いまは言葉も表情も失い、「土塊(つちくれ)」のようになって閉鎖病棟にいる。息子が会いに行くと、父は看護師に声を発する。「やっ」。
彼女は「そうですよね、嬉(うれ)しいですよねえ」と父に返す
▼この面会を父が喜んでいるという「意訳」に、息子は戸惑う。看護師にわかることが、めったに来ない息子には理解できない。
心を病んだお年寄りに寄り添うことの難しさやつらさが、読者の胸に迫る。それが現実の世界で、まして在宅でとなれば、家族の苦労は筆紙に尽くせまい
▼先月、介護にかかわる厳しい判決が出た。認知症の91歳の男性が徘徊(はいかい)し、線路内で列車にはねられ亡くなった。
この事故でダイヤが乱れ、JRに損が出た。
裁判所は男性を世話していた妻らに責任があるとし、720万円を払えと命じた
▼きのうの本紙東京本社版などの生活面が報じている。
男性が外に出たのは、妻らが目を離したわずかな間だった。見守りを怠った、と判決はいう。
しかし、人間だれしも一瞬の隙はある。
負わされる責任が重すぎないか
▼「動機」の幕切れ、「やっ」は嬉しいという意味だと話す主人公に、妻は「そんなの、ずっと前から」知っていたと答える。
小説のなかでは救いが訪れるのだが
。」”

当方には、「天声人語」が短編「動機」を取り上げ、本事案に何を言いたいのか消化不良です。
当方は、認知症の高齢者を在宅介護には家族の負担が大きく、不注意で認知症の高齢者が事故を起すリスクもあるので、画一的な在宅看護偏重に疑問を持っています。
介護される高齢者は、年齢とともに行動範囲も狭まり厳重に管理される在宅介護より、家族的(ユマニチュード的)な雰囲気(「やっ」と挨拶する間柄)の介護を提供する施設介護が平穏に過ごせる場合もあると思っています。
問題は、特養側が手間のかかる認知症高齢者に家族的な介護ができる経営環境があるのかどうかでしょうね。
認知症高齢者むけには、「グループホーム」があるが、最近知った「通い」を中心に「泊まり」「訪問」の3サービスを組み合わせて提供する小規模多機能ホーム(旧:「宅老所」)が家族の介護負担を軽減させると思いましたね。

(3) 門田隆将氏のブログ『裁判官は「日本」を滅ぼす』(2013.09.30)

今日の産経新聞の「産経抄」に、認知症の91歳の男性が線路内に入って電車に轢かれて死んだ事故の判決のことが載っていた。JR東海が、列車の遅延に対する損害賠償720万円を要求し、名古屋地裁は、その「全額の支払いを命じた」という件である。

老人は、認知症で徘徊し、家族で介護していた。産経抄は、「事故は、妻がまどろんでいる間に、男性が家を出て起きた。認知症の人を24時間監視するのは不可能だ。そんな実態を無視して、“監督責任”を認めた判決は、遺族だけでなく、介護に関わる多くの人に衝撃を与えている」と書いている。

これは、日本の官僚裁判官の典型的な病理が表われているものなので、興味深い。日本の裁判官が、裁判で重視するのは「要件事実」だけである。「事情」には踏み込まない。それが鉄則だ。なぜなら、いちいち「事情」に踏み込んでいったら、一人の裁判官が200件、300件、あるいはそれ以上抱えている案件が「処理できない」からである。

そこで、判決に組み込んでいかなければならない「要件事実」だけが判断のポイントになる。ここでは、老人が「線路に侵入」し、「列車事故が生じ」、JR東海に「総額720万円の損害」が生まれ、JR東海がその損害賠償を「請求した」ということが確定すれば、それでいいのである。

裁判官は、司法修習時代から延々とこの「要件事実」を抽出するための教育を受けている。それは「訓練」と言い換えた方がいいかもしれない。判決に必要な「要件事実」だけを抽出させるこの教育(訓練)は、法曹関係者の間では「要件事実教育」と呼ばれている。

彼らにとっては、老妻が徘徊老人を24時間介護しているなどという「事情」はまったく関係がない。JR東海による損害請求の「全額」と「介護者の監督責任」をすべて認める判決が出る理由は、そこにある。

日本の官僚裁判官が、とんでもない判決を出してしまうのは、この「事情」というものが排除され、「要件事実」だけで判断しているからにほかならない。

今日、私はその日本の官僚裁判官から凄まじい判決を受けた。「書籍廃棄判決」である。私は、新潮社から10年前に『裁判官が日本を滅ぼす』を上梓しているので、この「要件事実教育」によってもたらされた日本の官僚裁判官の悪弊と、裁判のおかしさを、かねて指摘してきている。

それだけに驚くべきことではないことかもしれない。だが、私は今日の判決を受けて、当事者としてはもちろんだが、むしろ納税者の一人として絶望感を抱いている。国民の一人として、日本の官僚裁判官のレベルに、ただ溜息が出てくるのである。

私は日航機墜落事故から25年が経った2010年夏、『風にそよぐ墓標 父と息子の日航機墜落事故』(集英社)というノンフィクションを上梓した。これは、1985年8月に起こった日航機墜落事故の6遺族の「その後の四半世紀」を追った作品である。

この本は、それぞれのご家族を取り上げた全6章から成るものだ。初めて「父と息子」にスポットをあてたもので、あの悲劇を乗り越えた家族の感動の物語としてノンフィクションで描かせてもらった。

本書に登場する6家族の方々に、直接、私自身が取材に伺い、絶望から這い上がってきた四半世紀に及ぶ「勇気」と「感動」の物語をお聞きし、すべてを実名で描かせてもらったのである。ご本人たちの了解を得て、取材させてもらい、日記や手記があるならそれを提供してもらい、「事実」と異ならないように気をつけて原稿を書かせていただいた。

しかし、私は、この作品の第3章に登場するご遺族、池田知加恵さんという80歳になる女性から「門田は自分の作品である『雪解けの尾根』(ほおずき書籍)の著作権を侵害した」と訴えられた。

経過はこれまでのブログでも詳しく書いてあるが、池田知加恵さんは、日航機墜落事故で亡くなったご主人を持つ未亡人である。私は、「父と息子」をテーマにしていたため、あらかじめこの知加恵さんのご子息に10時間近い取材をさせてもらっている。そして、その上で、母親である知加恵さんご本人にも別の日に3時間半にわたって取材をさせていただいた。

その取材の折、知加恵さんは17年前に出したという事故の時の自身の体験をまとめた当該の『雪解けの尾根』という手記本をわざわざ「門田隆将様 感謝をこめて 池田知加恵」とサインして私に提供してくれた。

この時、事故から25年も経過しており、ご高齢だったこともあり、ご本人が「私にとっては、この本を書いた時が“記憶の期限”でした」と仰られたので、私の取材は、提供されたこの本に添ってご本人に「事実確認」をする形でおこなわれた。

ご高齢の方への取材というのは、こういう方法は珍しいものではない。戦争関連をはじめ、多くのノンフィクション作品を私は出しているが、たとえば太平洋戦争の最前線で戦った元兵士に取材する際は、自分が若い時に戦友会誌などに書いた回想録を提供され、それをもとに「記憶を喚起」してもらいながら取材させていただくことが多い。

より正確に事実を書いて欲しい、というのは誰にも共通のものであり、私は池田知加恵さんにも長時間にわたって、この本に基づいて記憶を喚起してもらいながら、取材をさせていただいた。

記憶が戻ってきた知加恵さんは、「このことは本に書いてなかったかしら?」「そうそう、それ書いているでしょ」と途中で何度も仰り、そのたびに本の中の当該の箇所を探すことが度々あった。

私はノンフィクション作家であり、いうまでもなく作品はすべてノンフィクションである。つまり、私の作品には、フィクション(虚構)がない。記述は「事実」に基づいており、そのため、取材が「すべて」である。

つまり、ノンフィクション作品とは、作家が想像によって「創作」することは許されない。小説との決定的な違いがそこにある。つまり、ノンフィクションはその性格上、「本人証言」と「日記・手記の発掘」が極めて重要なのである。

取材の際、知加恵さんは著書だけでなく、事故に関連してご自身が登場したニュースやワイドショーを録画したDVDを提供してくれたり、取材後も自分の発言の訂正部分を手紙で書いて寄越してくれたり、積極的に取材にご協力をいただいた。

私は、ご自宅をお暇(いとま)する時も、「大変ありがとうございました。今日の取材と、このご本に添って、事実を間違えないようにきちんと書かせてもらいます」と約束し、その言葉通り、事実関係に間違いのないように原稿を書かせてもらった。そして、巻末には、「参考文献」として『雪解けの尾根』を明記したのである。

私が書いたのは、彼女がどう行動し、どう思ったのか、という「事実」だけである。つまり、私は「本人に直接会って」、「手記本を提供され」、記憶が曖昧になっていた本人に「記憶を喚起してもらいながら、その手記本をもとに事実確認取材をおこない」、これを記述したのである。

もちろん、手記本と同一の文章はひとつもなく、忠実に「事実」だけを描写させてもらった。事実がひとつしかない以上、突き詰めて取材すれば、「事実」が当事者の手記と似ているのは当然だ。いや、似ていなければ、それはノンフィクションではなく、小説になってしまう。

しかし、『風にそよぐ墓標』を発刊後、知加恵さんは「著作権侵害だ」と訴えてきたのである。私は、およそ30年にわたって記事や本を書く仕事をしているが、このようなことは無論、初めてである。

取材相手には、さまざまな方がおられるので、これもノンフィクションライターとしての宿命には違いない。この訴訟が起こされる4か月も前に、まだ当事者以外、誰も知らない時点で朝日新聞が社会面を5段も使って「日航機事故遺族、作家提訴の構え」と大々的に報じたのも、不思議だった。

以来、私はノンフィクション作品の取材と執筆に忙殺される中で、この訴訟とつきあってきた。私は取材時の録音テープやノートなども証拠として提出し、取材の時のようすを含め、すべてを法廷で立証した。

しかし、そこで私は「要件事実教育」を受けた官僚裁判官の実態にあらためて驚かされた。前述の通り、日本の裁判では、「事情」には踏み込まない。裁判官には、「小説とノンフィクションとの違い」や、「取材時のやりとり」、あるいは、本人が「手記本を提供した時のようす」……等々、そんな「事情」は関係がないのである。

今日、私は3月の一審につづいて、二審で、著作権侵害額として「2万5200円」、慰謝料を「50万円」、弁護士費用「5万2520円」という計「57万7720円」の支払いと書籍の「廃棄」を命じられた。

つまり、日本の著作権裁判では、著作権侵害で訴える人がいて、ふたつの書籍の記述の一部が「類似」しているという「要件事実」がそこにあれば、それでいいのである。

この判決に従えば、私は取材の時に「利用してはいけないもの」をご本人から提供され、それをもとにご本人に対して「書いてはいけない事実」を3時間半にわたって「確認取材」しつづけていたことになる。

私は溜息だけが出る。日本のノンフィクションはこれからどうなるのだろうか。この判決によって、今後、先行する「当事者の記述」が存在する場合、ノンフィクションは、どう「事実」を描写するのだろうか。

「わざと間違えて書く」か、あるいは、それを参考にすることに対して取材時に「契約書を交わす」ことが求められるようになるのだろうか。フィクション(虚構)のない世界を描く「ノンフィクション」は、今後、どうなっていくのだろうか。

いずれにしても、ノンフィクションの息づく範囲は極めて狭くなったと言わざるを得ない。「表現の自由」を脅かすこの判決が、「要件事実教育」がもたらす弊害であることは前述の通りだ。

判断をする時に問題の「本質」や「事情」に目を向けることができない官僚裁判官に、国民はいつまで「法廷の支配」を任せるつもりだろうか。私は、ふと、そう思った。日本は、官僚裁判官によって、やがて滅ぼされる。私は10年前に上梓した私自身の本の題名を今、あらためて思い起こしている。

(4) 10月3日 朝日新聞社説『認知症と賠償―家族を支える仕組みを』 

 ”「認知症の人が地域で暮らしていれば、徘徊(はいかい)は珍しくない。

 もし事故が起きたとき、責任を家族だけに負わせず、社会で担う何らかの仕組みが必要ではないか。

 愛知県内で列車にはねられ死亡した認知症の男性(当時91)の遺族が、振り替え輸送にかかった費用などの損害賠償として約720万円をJR東海に支払うよう裁判で命じられた。

 8月に名古屋地裁が出した判決は、介護の方針を決めていた長男に監督義務があるとし、死亡男性の妻(当時85)についても「目を離さず見守ることを怠った」と責任を認めた。

 一方、介護の関与が薄いきょうだいの責任は認めなかった。

 損害を受けた側を救済するため、民法の不法行為責任を根拠に、ここまで幅広い監督義務を家族に負わせるのは妥当なのだろうか。

 心配なのは、この判決がさまざまな介護現場の家族にもたらす心理的な影響だ。

 介護に深くかかわるほど、重い責任を問われる。それなら家族にとっては施設に入れた方が安心。施設としてはカギをかけて外出させない方が安全――という判断に傾きかねない。

 年老いても、住みなれた地域で人間らしく暮らせるようにするのが、この国の政策目標である。判決は、そこに冷や水を浴びせかけた。

 高齢者の介護で家族が大きな役割を果たしているのは事実である。だが、法的にどんな責任を負うのかは別の問題だ。

 家族に見守りの注意義務を厳しく求めるあまり、「何かあったとき責任を取りきれないから病院や施設に入れる」という状況をつくってはならない。

 家族の責任は、かねて精神障害者の処遇をめぐって議論を呼んできた。他人に対して危害を加えた障害者の家族に、多額の賠償責任を負わせる判決がいくつか出たからだ。

 損害を受けた被害者の救済は必要である。それと、高齢者や精神障害者が地域で人間らしく暮らすこととを調和させる手立てを講じたい。

 家族の責任を問う以外に、何らかの社会的なシステムをもうけるべきだ。

 たとえば犯罪被害者には給付金を支給する制度がある。知的障害者については互助会から発展した民間の賠償責任保険がある。参考になるだろう。

 要介護の認知症高齢者は、2010年時点で280万人。25年には470万人にまで増えると推計されている。事故への備えは喫緊の課題だ
。」”

(5) 「週刊現代」(2013年10月19日号)の記事『裁判所よ、認知症の老人はベッドに縛り付けておけというのか 認知症の親が徘徊→線路に入って列車事故 家族に720万円の損害賠償命令』では、有識者の意見もあります。



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