傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

伊勢神宮遷宮:日本は「鵺」のような特異性(雑感)(追記)

2013-10-03 12:02:19 | 独り言

伊勢神宮の式年遷宮もあり、メディアが伊勢神宮らの神道の特集番組を視聴し、日本社会は歴史的に自然に神が宿る土着性の風土に朝鮮・中国の文化を取り入れ融合し、西洋文化もキリスト教も取り入れ日本の風土化する「」ような特異性が特徴と思うこの頃です。
要は、土着的な自然との共生が自然に神が宿る風土に、中国から伝来した律令制度での統治の権威付けに土着的風土を神格化・神聖化が神道であり、その象徴的な存在が天皇制であり伊勢神宮ですね。

当方の実家は、仏壇があり天台宗の檀家になっており、家には神棚があり定期的にサカキ(榊)を飾り、近くの神社に初詣し、お盆には墓参りし、「万の神」で育ち、寺と神社を意識したことがなかったが、TVの「伊勢神宮・式年遷宮」特集を視聴し、日本の神道は何か?、日本人の特異性を意識するようになりましたね。

啓発された番組は、NHK、9月30日放送【ハイビジョン特集 伊勢神宮 受け継がれるこころとかたち】(再放送:10月8日午前0時45分〜 )で番組紹介を転載すると、
”「20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮は、10月、ご神体が新殿に移る「遷御」が行われる。この遷宮の行事は、平成17年(2005年)から始まっている。この番組では、遷宮の開始とともに撮影を始め、地元はもとより、ご神木の切り出しを受け持つ木曽の人々など、多くの人々が伝統を守り、自然を敬い、敬虔な思いで伝えていくさまを伝える。」”
、10月1日放送【ハイビジョン特集 神が降り立った森で ~春日大社・祈りの記録~】(再放送:10月9日午前1時15分〜)で番組紹介を転載すると、
”「奈良の春日大社は、神体山である三蓋山(みかさやま)と合わせて「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されている。三蓋山は信仰により、入山伐採を禁じられた区域があり、市街地に接しながら広大な照葉樹の原始林が広がる。番組では、藤原氏の氏神として奈良の都を護ってきた大社の森を、秋から冬を経て春までの時間の流れの中で、秘められた祭祀とともに紹介する。」”
、10月2日放送【ハイビジョン特集 代々木の杜の物語~明治神宮~】(再放送:10月10日午前0時45分〜)で番組紹介を転載すると、
”「東京の中心部に広がる70万平方メートルの明治神宮の杜。ここは人工林でありながら豊かな生態系を形成する「奇跡の森」として注目されている。大正9(1920)年、社殿の造営とともに始まった杜づくりは、100年後の「自然林」を目指したものだった。杜には神々の宿るとされる。明治神宮と不可分の杜を育てた秘密や、内奥でくり広げられる神事や神職の日々を織りまぜて伝える。」”
です。

政教分離、天皇制らの功罪については、当方も認識しているが、浅学の当方は、神話による土着的な神道については寛容で、自然相手の狩猟の縄文人と自然を活用する稲作文化の弥生人とが融合し米作が根幹になった日本社会は、毎年毎年、平穏に自然からの恵みを頂く営みへの感謝と努力が自然の万物に神が宿るという心情を育み、それを体系・神格化させたのが神道で、現世を生きる人間に馴染み易く日本人の遺伝子になったのでしょうね。
神道のいう「常若」は、毎年毎年の自然から新たな恵みを意味し、それの神秘化が式事遷宮・遷御なのでしょうね。

日本の統治の権威付けに「自然に神が宿る」心情を神格化・神聖化され祭政一致、その伝統継承されてきたのが神道で、良き来世を願う極楽の仏教、天国のキリスト教の信仰と異質でありながら、現世に良き物は柔軟に取り入れる資質が日本人の特異性でしょうね。
本ブログ「大河ドラマ”八重の桜”に知的刺激を受ける(雑感)(続)」(2013-08-11)で、
”「徳富蘇峰が新島八重を「鵺」と糾弾したそうですが、日本社会は歴史的に土着性の風土に朝鮮・中国の文化を取り入れ融合し、西洋文化もキリスト教も取り入れ日本の風土化する「鵺」であり、不可思議な特質です。」”
と書きましたが、新島八重は日本人の特異性の極みの一例でしょうね。

マアー、鎮守の森の神社には、何か厳かな雰囲気を生理的に感じるのは、自然と共生する心情が日本人の遺伝子にあるのでしょうね。

「追記」

当方は、親からは「嘘はつくな!」、騙したつもりでも「天知る、地知る、我知る」で必ずバレる、「悪事はするな!」と育てられ、子供頃は、神社仏閣には「祈願」するより「罰当たり」「たたり」に出会わないように頭を下げていた思いがあり、神社は身近で馴染んでおり、神道に問題意識を持たなかったことは事実です。
日本は、伝統的な民俗信仰・自然信仰を起源とする神道があり、仏教伝来で日本文化が開花し、キリスト教伝来で刺激を受け文明開化したが、神道は統治に関連し祭政一致、政教分離と紆余曲折しながら今日に至ってきたのでしょうね。

浅学で適当な人間と広言している当方は、本ブログで、ブログ「社会科学者の時評」様には触発・啓発されると書いてきました。
ブログ「社会科学者の時評」様は、従来から「天皇制」「靖国神社」問題には、辛口の批評されているのは知っており、この度の伊勢神宮の式年遷宮・遷御についての見解を留意していました。

ブログ「社会科学者の時評」様は、
エントリー『 ■ 伊勢神宮遷宮問題;「天皇教」政教一致の日本国の「重大問題」■(1)』(2013.10.3)、サブタイトル(◎ 落ち目の国が《神》にすがる事情 ◎  【アベコベミクスが,「政治・経済」に一貫する矛盾に,さらに「宗教」を絡めながら深めていく末期的な現象】)、
エントリー『■ 伊勢神宮遷宮問題;「天皇教」政教一致の日本国の「重大問題」(2)■』(2013.10.3)、サブタイトル(◎ 落ち目の国が《神》にすがる事情 ◎  【アベコベミクスが,「政治・経済」に一貫する矛盾に,さらに「宗教」を絡めながら深めていく末期的な現象】)
で、伊勢神宮の「遷御の儀」に安倍首相の参列らを酷評しています。

それにしても、安倍首相の”「そこのけそこのけ安倍晋三が通る」”が”「そこのけそこのけ安倍神様が通る」”の時勢には、不安になる昨今です。
やはり、世の中の混乱の主因は、民族、宗教ですね。



1 コメント

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hierarchy (noga)
2013-10-03 12:44:33
人間は、基準に合わせて判断を下している。
日本人の基準は序列である。序列の基準は現実の中にある。非現実の基準は考えることができない。
英米人の基準は ‘あるべき姿’ である。この基準は現実の外 (頭の中) にある。人々が求めるものは、個人の頭の中にあるリーズン (理性・理由・適当) である。
彼らはリーズナブルの範囲での決着を願っている。リーズンを失うことは恥である。この恥は、見栄とも外聞とも関係がない。

我が国においては、お上の言うことは、理由のあるなしにかかわらず、現実の基準 (錦の御旗) になっている。そうでなければ非国民 (非序列人間)。
民はお上に対して無防備・無力・無抵抗。’耐え難き’ を耐え、’忍び難き’ を忍んで、南の島に雪を降らせている。
民はたとえ反抗しても、筋 (リーズン) を通すことは難しい。筋により事柄を取り決める習慣が社会にないからである。

我が国の長は、自分が日本人の信頼を得るために、序列人間である証拠を示さなければならない。信なくば立たず。それには、神社参拝が必要である。カミに服従を示すことが欠かせない。
序列人間の長であることが人々に確信できれば、いったん緩急あれば、’たとえ火の中水の中’ という人間がいっぱいいる。ともに散ります国のため。かれらは、そうでなければ動かない人たちでもある。
だから、我が国の政治家は、英霊の御霊に追悼の念を表す際に、宗教家の手を煩わさないわけにはゆかないのである。






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