傍観者の独り言

団塊世代で、民間企業で「チンタラ・グウタラ」に過ごした人間の手前勝手な気儘な戯言・放言。

老母を在宅で看取る覚悟することに・・・世の大勢に追随ではないが

2014-06-06 04:15:33 | 社会保障

病院で延命治療中の老母は病院で看取りの先約があったが、過日、新たな主治医から療養病院での延命治療中の老母の今後についての示唆があり、改めて老母を在宅で終末期を迎えるべきか再考する契機となり、病院側と在宅で終末期治療について協議し老母を自宅で終末を迎えさせることに決断いたしました。
当方は、1年前に老母の在宅介護を断念したが、医療費抑制に病院での社会的入院・看取りから在宅看護・看取りが世の大勢であり、他人事ではなくなりました。

当方は、老母を入院先で看取ることにし、老母は経管栄養による延命治療中で思いの他元気で過ごしておりますが、認知症の老母に療養病院での延命治療に疑問を持ち始めていたおり、4月下旬に新たな主治医から療養病院での老母の今後について暗に在宅介護を示唆され、老母の終末期をどうするのか提起されました。
療養病院は基軸は治療であり、看護であり、介護は付帯業務で、機械的に経管栄養を施し、検温など様子見、床ずれ、オムツ交換、入浴であり、認知症の老母には、日常会話は限定的・機械的で刺激のないベットで終日過ごしており、療養病院で終末期を迎えさせることに疑問を持ち始めており、主治医の発言を契機に自宅で終末期を迎えさせようと思いました。

入院先で看取る約束があったが、経管栄養による延命治療中の認知症の老母の終末をこのまま病院に委ねてよいのか気がかりで、高齢者の終末期について、本ブログ『『BSフジ終末期医療と人間の死 本人の意思どこまで?:尊厳死法案の行方は』・・・特養の現実(雑感)』(2014-03-27)、本ブログ『NHKスペ「家で親を看取る その時あなたは」・・・覚悟済みではあるが?』(2013-04-22)らを書いてきました。

当方は高齢者の延命治療には懐疑的で不要論で、老母への経管栄養を施すことにも難色を示したが当時の主治医から「しばらくは様子見をさせて欲しい」ということで経(鼻胃)管栄養法を施し現在に至っているが、昨年春、在宅医療・看護を打診したが当時は地域の訪問医療・看護サービスは限定的で在宅を断念した経緯があり、新たな主治医から認知症の老母の療養医療機関での延命治療の是非を示唆されたのは終末期を病院より在宅で迎えるのが老母には幸せではないかという打診であり、現実は老母の日常の入院生活は介護ヘルパーによる体位変換、オムツ交換、入浴らの介護による家族的な会話が多く、一方で、認知症向け看護手法「ユマニチュード」を取り上げましたが看護の会話は限定的機械的であり、この現実に疑問をもち高齢者の終末期は医療より介護であると思うようになり、病院側と在宅での終末期治療について協議し老母を在宅で終末期を迎える決断をしました。

その後は、入院病院グループには、在宅介護支援センター、訪問看護ステーション、ホームヘルプサービスがあり、在宅介護支援センター(ケアマネジャー)を窓口に老母を在宅で終末期を送れように準備作業に着手しました。
老母は、特養に入居後、転倒事故後拒食症状になり、入院した現在の病院と看取りまで責任を持つという約束があり、介護保険は不要と思い要介護認定を中止したこともあり、再認定を申請したら要介護5の認定でした。
在宅での必須の問題は、家族、事実上は当方が経(鼻胃)管栄養を施す責務があり、病院側はマニュアルを更新し、経(鼻胃)管栄養、体位変換、オムツ交換について立案された1週間の事前レクチャーの計画を実習し、経管栄養の準備・装脱着・後処理は習得したがオムツ交換作業の大変さを痛感し、ホームヘルパーに何処までお願い出来るかが最大の課題と思いました。
入院病院グループのホームヘルプサービスは満杯で外部事業者に探すことなり、先日、ケアマネジャーの推奨の某外部業者と面談し事実上、全曜日、日に2回、身体介護の訪問を受諾していただき、訪問介護をお願いすることになりました。

また、訪問医療については、当方は93歳の老母が急変した際に、救急車コールは無用とし最悪の事態に訪問医が死亡診断書を書いてくれるかどうかを要請しました。
要は、93歳の老母の急変は老衰であり寿命で救急治療は無用の考えで、救急車コールせずに変死扱いの警察沙汰になることだけは回避したかったのです。
急変時は訪問看護ステーションに連絡し指示待ちで、最悪時にも訪問医が死亡診断書を書くということです。

認知症の老母の受け入れ準備は、ほぼ終了し、週明けには退院し自宅で終末期を迎えることなります。
当方は、痴呆症状が現出し始めた時点から独居生活の老母の世話に時間を割いてき、ディサービス通所、特養入居、療養病院入院に、この度、在宅で終末期の看取るまで看ることになり、人間の終末期をどのように過ごすべきか考えさせられます。
この度の老母の在宅看護・介護は、世の大勢の医療費軽減の病院から在宅への追随ではなく、終末期の老母の療養病院での看取りは療養病院が「姥捨て山」に思え、支離滅裂でも日常会話(意思疎通)できる環境で終末期を送らせてやりたいという心情からです。
とはいえ、介護は肉体労働でもあります。
世の中、高齢少子化の核家族社会で老親の介護は家族負担も大きく、老老介護、認認介護が顕在化しており、子供向けオムツより高齢者向けオムツ市場が大きくなり、終末期医療より終末期介護が主題と思うこの頃です。
下の世話をもしてくる介護ヘルパーには、ただただ感謝・深謝する思いです。

本ブログ『高齢者の終末:本人の意志尊重と言うが?・・・会話出来る間は?』(2013-04-09)でも書きましたが、やはり、健康第一で「ピンピンコロリ」が世の為・人の為ですね。



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