ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

ある日の日記

2014-12-23 20:46:11 | ある日の日記
ノエルのご飯を買いに、「アミーゴ」へ行った後、図書館へ。以前から読みたいと思っていたディクスン・カーの「蝋人形館の殺人」を借りました。カーの怪奇ミステリは、この蝋人形とか爬虫類館とか、魔女裁判とか、私の好きなジャンルが並ぶのですが、あんまり面白くなかったものも多いんですね・・・。これが面白ければ、良いのだけど。

それから、夕食の支度(カレーライスとブロッコリーのスープ)をしていると、近所のBさんから一足早いクリスマスプレゼントを頂きました。中は、何と図書券! いいのかなあ…こんなにもらって…?

今夜は、一週間ぶりにカリグラフィーでも書こうかな?

P.S 今、思い出したけど、まだ年賀状作ってませんでした。ドベタでも、自分んちで年賀状作ってるから、Wordをまた起動させないとね……。挨拶をおくるのは、毎度おなじみノエルです。


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思い出のマーニー(再読)

2014-12-23 20:11:03 | 本のレビュー
この間読んだばかりなのだけれど、余韻がずっと残っていて、また読むことに。

本というのは、不思議なもので繰り返し読むことで、最初の印象からどんどんずれていって「あれ、これはこういう読み物だったのか」と全く新しい顔を見せることさえある。「思い出のマーニー」も、最初は思春期の透明な心情や、マーニーという少女との時を越えた交流が描かれた美しい物語という感じだったのが、思いもかけぬ複雑な顔をのぞかせてくれたのだ。

海辺の避暑地、季節は夏--とくれば、少女期特有のきらめく心情が描かれるはず、と誰しもが思うはずでは? だが、主人公アンナの心情もまわりの風景もどこか寂寞たる面持ちがある。ちょうど、アンナがいつも訪れる入江の潮が引いた後の風景のように……。 アンナのよるべない、寂しさが見事に描写されているのに、「ひょっとしたら?」と思った通り、著者の子供時代の思い出がアンナの姿に投影されているのだそう。 

アンナが出会う少女マーニーも、深い孤独のうちにいる。両親からほうっておかれ、海辺の屋敷に一人ひきこもっている少女。その実態は、お手伝いさんや家庭教師たちから、今でいう「虐待」に近い扱いさえ受けいていたりする。この本についての読後感を人と話し合った際、その人が「マーニーがアンナを『家のない子』として、自分の家のパーティーに連れていったりする場面が嫌だなぁという感じ」と語った時、「それは、そうよね」と私も同感。 大体、マーニーは魅力的な少女には違いないのだが、嵐の夜風車小屋にアンナを一人置き去りにしたり…と結構ひどいことも平気(?)でやってのけるのだ。それでも、彼女の置かれた状況や、愛されることを知らなかった人生を知ったなら、アンナならずとも許してしまうに違いない。 

物語の最後、すべての謎が解け、マーニーが一体誰だったのかわかるのだけれど、マーニーのたどった人生やつかみ損ねた幸福に、一抹の哀しさを覚えるのは、私だけではないはず。単純なハッピーエンドで終わらないところに、この児童文学の奥の深さがあるのだし、「少女健忘症?」の気味さえ感じられたアンナが、最後、マーニーを思い出したところも一つの救いと感じられた。
半世紀という時を越えて、夢のように美しくはかない交流をかわしたアンナとマーニー--けれど、マーニーは、アンナの中に生き続けているのだ。
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