福岡県久留米市大善寺町宮本一本松の沖積地にあります。
鬼塚古墳とも呼ばれています。
西鉄天神大牟田線・大善寺駅から北へそう遠くない所です。
北側にある二重の周濠を持つ直径90m・高さ10mの円墳「権現塚古墳」ともども平成5年に、史跡公園「御塚・権現塚の広場」として整備事業が完成しています。
もともとこの一帯には、「イロハ塚」と呼ばれる40数基の古墳が点在していたそうですが、大正時代の耕地整理で消滅し、いまはこの御塚・権現塚の2基が残るだけだそうです。
全長78m、 後円部径67m・高さ10.3m、 前方部幅17m・高さ1.5m 二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
前方部は、1602年久留米街道ー現在の柳川県道(県道23号線)を作る際削られてしまい、ほとんど残っていません。
墳丘の周りには、三重の周濠(いづれも同じ深さに造られています。)があります。
その外側には周庭があります。
周庭を結ぶ陸橋部が3ケ所設けられています。
円筒埴輪や人物埴輪・水鳥形埴輪・盾形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
そのほか朝鮮半島・新羅系のものが含まれる須恵器や土師器なども出土しています。
内部主体部は未調査につき不明です。
江戸時代後期の久留米藩の学者・矢野一貞が著した「筑後将士軍談」と言う本には、すでに盗掘を受け、墳丘には石人があったと記されているそうです。
ここから南東方向9kmほどの所には、石人で有名な岩戸山古墳を含む「筑紫の君一族」の墓と言われている八女古墳群があり、その関係が注目されています。
その後の調査で、盗掘は受けていない可能性が出てきているそうです。
この古墳の被葬者は、大陸と交渉があった「日本書紀」にも出てくる「水沼君(みぬまのきみ)」一族と考えられています。
古墳時代中期・5世紀後半~6世紀前半ころの築造と推定されています。
昭和6年10月21日、御塚・権現塚古墳として国の史跡に指定されています。
公園は市民の憩いの広場になっているようです。
(前方部から後円部を見ています。)
(後円部から前方部を見ています。奥が県道23号線です。)
(後円部と周濠の一部)
鬼塚古墳とも呼ばれています。
西鉄天神大牟田線・大善寺駅から北へそう遠くない所です。
北側にある二重の周濠を持つ直径90m・高さ10mの円墳「権現塚古墳」ともども平成5年に、史跡公園「御塚・権現塚の広場」として整備事業が完成しています。
もともとこの一帯には、「イロハ塚」と呼ばれる40数基の古墳が点在していたそうですが、大正時代の耕地整理で消滅し、いまはこの御塚・権現塚の2基が残るだけだそうです。
全長78m、 後円部径67m・高さ10.3m、 前方部幅17m・高さ1.5m 二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
前方部は、1602年久留米街道ー現在の柳川県道(県道23号線)を作る際削られてしまい、ほとんど残っていません。
墳丘の周りには、三重の周濠(いづれも同じ深さに造られています。)があります。
その外側には周庭があります。
周庭を結ぶ陸橋部が3ケ所設けられています。
円筒埴輪や人物埴輪・水鳥形埴輪・盾形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
そのほか朝鮮半島・新羅系のものが含まれる須恵器や土師器なども出土しています。
内部主体部は未調査につき不明です。
江戸時代後期の久留米藩の学者・矢野一貞が著した「筑後将士軍談」と言う本には、すでに盗掘を受け、墳丘には石人があったと記されているそうです。
ここから南東方向9kmほどの所には、石人で有名な岩戸山古墳を含む「筑紫の君一族」の墓と言われている八女古墳群があり、その関係が注目されています。
その後の調査で、盗掘は受けていない可能性が出てきているそうです。
この古墳の被葬者は、大陸と交渉があった「日本書紀」にも出てくる「水沼君(みぬまのきみ)」一族と考えられています。
古墳時代中期・5世紀後半~6世紀前半ころの築造と推定されています。
昭和6年10月21日、御塚・権現塚古墳として国の史跡に指定されています。
公園は市民の憩いの広場になっているようです。
(前方部から後円部を見ています。)
(後円部から前方部を見ています。奥が県道23号線です。)
(後円部と周濠の一部)