福岡県久留米市京町279-1、筑後川左岸の小台地上(日輪寺境内)にあります。
JR久留米駅から西へ500mほどの所です。
全長50m、 後円部径22m・高さ4m、 前方部幅15m・高さ?m の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
前方部は南側に一部が残るのみですが、西側のくびれ部はよく原型をとどめています。
上記写真は、手前が前方部(があったところ...)です。
後円部には板石積みの横穴式石室があります。
後円部墳丘は石室の天井よりも低く削平を受けていて、現在は聖観音を祀るお堂と石室保護施設が建っています。
明治45年(1912年)3月、京都帝国大学による発掘調査が行われています。
発掘時には墳形も変わっていて、石室の天井石や側壁の大部分、羨道などは無くなっていたそうです。
昭和50年には石室復元のための石室内調査が、久留米市教育委員会によって実施されています。
石室内には、側壁に沿って阿蘇凝灰岩で造った石障が置かれています。
石障は長さ2m、幅1.7m、高さ0.5m あります。
石障の上には、赤色に染められた楕円形の礫石が多数置かれていたそうです。
石障の内側には、奥壁と左右両壁の上半分に鍵手文と同心円を交互に配した線刻文様が施されています。
また右壁の鍵手文帯には、四個の方柱状の小突起があります。
副葬品として、倭製変形四獣鏡・勾玉・管玉・ガラス製玉・小玉・銅環・刀・鉄鏃・土師器・須恵器などが出土し、日輪寺に保管されていました。
しかし戦災にあい、現在は倭製変形四獣鏡・玉類数個・鉄鏃・土師器などが残るのみだそうです。
そのほか石枕が東京国立博物館に保管されています。
5世紀末~6世紀初め、上津荒木浦山古墳に続いて築造されたものと推定されています。
大正11年3月8日、国の史跡に指定されています。
この古墳からそう離れていない所に、あの「坂本繁二郎画伯」の生家があります。
(後円部に建つ石室保護施設と聖観音を祀るお堂)
JR久留米駅から西へ500mほどの所です。
全長50m、 後円部径22m・高さ4m、 前方部幅15m・高さ?m の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
前方部は南側に一部が残るのみですが、西側のくびれ部はよく原型をとどめています。
上記写真は、手前が前方部(があったところ...)です。
後円部には板石積みの横穴式石室があります。
後円部墳丘は石室の天井よりも低く削平を受けていて、現在は聖観音を祀るお堂と石室保護施設が建っています。
明治45年(1912年)3月、京都帝国大学による発掘調査が行われています。
発掘時には墳形も変わっていて、石室の天井石や側壁の大部分、羨道などは無くなっていたそうです。
昭和50年には石室復元のための石室内調査が、久留米市教育委員会によって実施されています。
石室内には、側壁に沿って阿蘇凝灰岩で造った石障が置かれています。
石障は長さ2m、幅1.7m、高さ0.5m あります。
石障の上には、赤色に染められた楕円形の礫石が多数置かれていたそうです。
石障の内側には、奥壁と左右両壁の上半分に鍵手文と同心円を交互に配した線刻文様が施されています。
また右壁の鍵手文帯には、四個の方柱状の小突起があります。
副葬品として、倭製変形四獣鏡・勾玉・管玉・ガラス製玉・小玉・銅環・刀・鉄鏃・土師器・須恵器などが出土し、日輪寺に保管されていました。
しかし戦災にあい、現在は倭製変形四獣鏡・玉類数個・鉄鏃・土師器などが残るのみだそうです。
そのほか石枕が東京国立博物館に保管されています。
5世紀末~6世紀初め、上津荒木浦山古墳に続いて築造されたものと推定されています。
大正11年3月8日、国の史跡に指定されています。
この古墳からそう離れていない所に、あの「坂本繁二郎画伯」の生家があります。
(後円部に建つ石室保護施設と聖観音を祀るお堂)