古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

大阪府和泉市・丸笠山古墳

2010-07-17 08:38:59 | Weblog
大阪府和泉市伯太町丸笠の信太山丘陵の西縁部先端にあります。
信太千塚61号墳とも呼ばれています。

全長96m、 後円部径66m・高さ8m、 前方部幅58m・高さ?m  二段構築の前方後円墳です。

墳丘は前方部で一部損傷を受けています。
墳丘の周りには周溝があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や朝顔形埴輪などが採取されたと伝えられていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
そのほかについては、詳しいことはわかっていません。

式内社丸笠神社の境内内にあります。
4世紀後半ころの築造と推定されています。
信太千塚古墳群を構成しています。








「信太千塚古墳群」
100基余の古墳があります。
茅渟県主(ちぬのあがたぬし)一族や、古代士族坂本氏(壬申の乱で功績があった)の家族墓と伝えられています。



大阪府和泉市・信太貝吹山古墳

2010-07-17 08:07:48 | Weblog
大阪府和泉市太町の信太山丘陵、西麓の舌状低位段丘上にあります。
あの清少納言が枕草子の中で「森は信太の森」と書いている所です。
墳丘は一部損傷を受けています。

全長67m、 後円部径55m・高さ10m、 前方部幅?m・高さ?m  帆立て貝式の前方後円墳です。

墳丘の周りには周溝が、その外側には周庭帯があります。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪や形象埴輪、滑石製槽(ふね)などが出土していて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

5世紀中ころの築造と推定されています。
平成15年3月28日、和泉市の史跡に指定されています。
古墳はフェンスで囲われていて、中には入れませんでした。

因みに古墳の名前の由来は、江戸時代一橋家領54ケ村の農民が蜂起した「千原騒動」の際、法螺貝を合図にここに集まったからと伝えられています。(説明板より引用)