群馬県高崎市綿貫町金堀にあります。
普賢寺裏古墳の南すぐのところです。
「岩鼻村15号墳」とも呼ばれています。


全長約94m、 後円部径54m・高さ10.1m、 前方部先端幅55m・高さ9.1m 二段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
その前方部は、昭和30年代の土取りのため削平されています。


また後円部も大分削平されています。
北側くびれ部には方形をした造り出しがあります。
墳丘の周りには馬蹄形をした周濠があります。




墳丘には河原石による葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・家形埴輪・器材埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
昭和37年(1962年)から39年にかけて発掘調査が行われています。
後円部中央にある埋葬施設には舟形石棺が埋葬されていました。
いまはこの古墳の名前の由来となった「不動尊」を祀るお堂の横に展示してあります。



大刀・鉄製鋤先・土師器などが出土しています。
古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。
綿貫古墳群を構成していて、普賢寺裏古墳に次いで築造されたようです。
平成4年3月2日、高崎市の史跡にしてされています。
普賢寺裏古墳の南すぐのところです。
「岩鼻村15号墳」とも呼ばれています。


全長約94m、 後円部径54m・高さ10.1m、 前方部先端幅55m・高さ9.1m 二段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
その前方部は、昭和30年代の土取りのため削平されています。


また後円部も大分削平されています。
北側くびれ部には方形をした造り出しがあります。
墳丘の周りには馬蹄形をした周濠があります。




墳丘には河原石による葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・家形埴輪・器材埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
昭和37年(1962年)から39年にかけて発掘調査が行われています。
後円部中央にある埋葬施設には舟形石棺が埋葬されていました。
いまはこの古墳の名前の由来となった「不動尊」を祀るお堂の横に展示してあります。



大刀・鉄製鋤先・土師器などが出土しています。
古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。
綿貫古墳群を構成していて、普賢寺裏古墳に次いで築造されたようです。
平成4年3月2日、高崎市の史跡にしてされています。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます