茨城県石岡市柿岡高友4123の恋瀬川を望む標高50~60mほどの丘陵中央にあります。
「円山1号墳」とも呼ばれています。
古くから「崇神天皇」の第一皇子「豊城入彦命」の奥津城として伝承されています。
周囲には中世の城館「高友古塁(高友城址)」の空堀が巡っています。
全長55m、 後方部一辺長34×30m・高さ7m、 前方部先端幅22m・高さ4m の前方後方墳です。
前方部を南東方向に向けています。
(右が前方部)
(後方部)
(広い後方部墳頂には五輪塔がたっています)
(前方部)
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
また埴輪の出土もありません。
1952年(昭和27年)12月、明治大学「後藤守一」教授のもとで発掘調査が行われています。
その結果、後方部の墳頂下約2mのところで粘土床(木棺)が発見されました。
倭製内行花文鏡や勾玉(瑪瑙・硬玉・碧玉・琥珀・蛇紋岩製)・碧玉製管玉・ガラス製小玉・ガラス製丸玉・銅鏃・鉄剣・鉄刀・刀子などが出土しています。
また遺骸の頭部分と推定される場所には水銀朱が撒かれていたそうです。
古墳時代前期後半・4世紀後半から5世紀初頭頃の築造と推定されています。
約30基からなる丸山古墳群を構成する1基として、昭和27年12月18日茨城県の史跡に指定されています。
「円山1号墳」とも呼ばれています。
古くから「崇神天皇」の第一皇子「豊城入彦命」の奥津城として伝承されています。
周囲には中世の城館「高友古塁(高友城址)」の空堀が巡っています。
全長55m、 後方部一辺長34×30m・高さ7m、 前方部先端幅22m・高さ4m の前方後方墳です。
前方部を南東方向に向けています。
(右が前方部)
(後方部)
(広い後方部墳頂には五輪塔がたっています)
(前方部)
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
また埴輪の出土もありません。
1952年(昭和27年)12月、明治大学「後藤守一」教授のもとで発掘調査が行われています。
その結果、後方部の墳頂下約2mのところで粘土床(木棺)が発見されました。
倭製内行花文鏡や勾玉(瑪瑙・硬玉・碧玉・琥珀・蛇紋岩製)・碧玉製管玉・ガラス製小玉・ガラス製丸玉・銅鏃・鉄剣・鉄刀・刀子などが出土しています。
また遺骸の頭部分と推定される場所には水銀朱が撒かれていたそうです。
古墳時代前期後半・4世紀後半から5世紀初頭頃の築造と推定されています。
約30基からなる丸山古墳群を構成する1基として、昭和27年12月18日茨城県の史跡に指定されています。