福岡県福岡市西区飯氏マツヲ地内の丘陵上にあります。
高祖山から伸びる丘陵の先端部・牟田坂池の南東側です。
全長54m、 後円部径43m・高さ6m、 前方部先端幅?m・高さ2m 二段構築の前方後円墳です。
古墳の前方部は削られてほとんど残ってなく、永らく円墳とみられていました。
平成6年~平成7年、及び平成15年の発掘調査で前方後円墳であることが判明しました。
造り出しはありません。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪・朝顔形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部にある埋葬施設は横穴式石室です。
江戸時代に盗掘を受けて開口し、入り口部分の半分と床面の大半が破壊されていたそうです。
短い羨道の奥に長さ4.4m・幅2.2~2.4m・高さ1.6mの石室があります。
床には石が敷かれていて、数度の埋葬が行われていたそうです。
出土したものとして、碧玉製管玉、ガラス製丸玉、鎧、鉄刀、鉄鏃、手鎌、鋲留短甲、須恵器などがあります。
石室は自由に見学することができます。
この古墳の築造時期は、5世紀後半ころと推定されています。
今宿古墳群を構成していて、平成16年4月5日国の史跡に指定されています。
1958年(昭和33年)、後円部の頂上付近から平安時代の経筒が発見されています。
経筒は高さが約41cm、直径が約10cmで2枚の銅板を貼り合わせて作られている珍しいものだそうです。
仏教の経典を納めた経塚として使われていたようです。
墳丘の周り(周濠?)には、猪が掘ったとみられる「えさ」をあさった跡が結構残っていました。
(後 円 部)
(破壊された石室入り口部)
(石室内部)
高祖山から伸びる丘陵の先端部・牟田坂池の南東側です。
全長54m、 後円部径43m・高さ6m、 前方部先端幅?m・高さ2m 二段構築の前方後円墳です。
古墳の前方部は削られてほとんど残ってなく、永らく円墳とみられていました。
平成6年~平成7年、及び平成15年の発掘調査で前方後円墳であることが判明しました。
造り出しはありません。
墳丘には葺き石が施されています。
円筒埴輪・朝顔形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部にある埋葬施設は横穴式石室です。
江戸時代に盗掘を受けて開口し、入り口部分の半分と床面の大半が破壊されていたそうです。
短い羨道の奥に長さ4.4m・幅2.2~2.4m・高さ1.6mの石室があります。
床には石が敷かれていて、数度の埋葬が行われていたそうです。
出土したものとして、碧玉製管玉、ガラス製丸玉、鎧、鉄刀、鉄鏃、手鎌、鋲留短甲、須恵器などがあります。
石室は自由に見学することができます。
この古墳の築造時期は、5世紀後半ころと推定されています。
今宿古墳群を構成していて、平成16年4月5日国の史跡に指定されています。
1958年(昭和33年)、後円部の頂上付近から平安時代の経筒が発見されています。
経筒は高さが約41cm、直径が約10cmで2枚の銅板を貼り合わせて作られている珍しいものだそうです。
仏教の経典を納めた経塚として使われていたようです。
墳丘の周り(周濠?)には、猪が掘ったとみられる「えさ」をあさった跡が結構残っていました。
(後 円 部)
(破壊された石室入り口部)
(石室内部)