福岡県京都郡苅田町与原御所山の丘陵上にあります。
国道10号線脇、当時の海岸線に沿って南北に延びた低丘陵上です。
全長約120m、 後円部径73m・高さ10m、 前方部先端幅82m・高さ11.5m 三段構築の前方後円墳です。
墳丘上には白庭神社の社殿が建てられています。
毎年2月12日には境内で、しめ飾りや古い神符を燃やして豊作と無病息災を祈る「どんと焼」が行われるそうです。
ちなみに祭神は、饒速日尊・大己貴命・罔象女命です。
(拝殿)
(本殿)
平成19年度から平成27年度にかけて発掘調査が行われています。
墳丘の周りには幅約5mの盾形をした周濠があります。
その外側には周堤があります。
くびれ部の両側に造り出しがあります。
墳丘には葺石が施されています。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部に割石小口積の横穴式石室があります。
北(前方部側)に向かって開口しています。
文政3年(1820年)に主体部が開口したそうです。
明治20年(1887年)、坪井正五郎博士による主体部の調査が行われています。
羨道は狭く、玄室は長さが4.7m・幅が3mあり、床面は長方形をしていて石障で屍床が別けられていたそうです。
南域に1体(成人)、外側に3体があり追葬を前提として造られていたようです。
石室壁面には赤色顔料が塗られています。
倭製銅鏡・四禽四乳鏡・硬玉製勾玉6個・硬玉製棗玉4個・碧玉製管玉83個・ガラス製玉4個・鉄鏃数個・甲冑・金銅製辻金具・金銅製雲珠など東アジア(高句麗~新羅)とのつながりを示す品々が出土しています。
古墳時代中期・5世紀前半から中頃にかけての築造と推定されています。
昭和11年9月3日、国の史跡に指定されています。
平成24年9月19日、史跡範囲の追加指定を受けています。
国道10号線脇、当時の海岸線に沿って南北に延びた低丘陵上です。
全長約120m、 後円部径73m・高さ10m、 前方部先端幅82m・高さ11.5m 三段構築の前方後円墳です。
墳丘上には白庭神社の社殿が建てられています。
毎年2月12日には境内で、しめ飾りや古い神符を燃やして豊作と無病息災を祈る「どんと焼」が行われるそうです。
ちなみに祭神は、饒速日尊・大己貴命・罔象女命です。
(拝殿)
(本殿)
平成19年度から平成27年度にかけて発掘調査が行われています。
墳丘の周りには幅約5mの盾形をした周濠があります。
その外側には周堤があります。
くびれ部の両側に造り出しがあります。
墳丘には葺石が施されています。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部に割石小口積の横穴式石室があります。
北(前方部側)に向かって開口しています。
文政3年(1820年)に主体部が開口したそうです。
明治20年(1887年)、坪井正五郎博士による主体部の調査が行われています。
羨道は狭く、玄室は長さが4.7m・幅が3mあり、床面は長方形をしていて石障で屍床が別けられていたそうです。
南域に1体(成人)、外側に3体があり追葬を前提として造られていたようです。
石室壁面には赤色顔料が塗られています。
倭製銅鏡・四禽四乳鏡・硬玉製勾玉6個・硬玉製棗玉4個・碧玉製管玉83個・ガラス製玉4個・鉄鏃数個・甲冑・金銅製辻金具・金銅製雲珠など東アジア(高句麗~新羅)とのつながりを示す品々が出土しています。
古墳時代中期・5世紀前半から中頃にかけての築造と推定されています。
昭和11年9月3日、国の史跡に指定されています。
平成24年9月19日、史跡範囲の追加指定を受けています。
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