古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

茨城県かすみがうら市・柳梅台古墳群1号墳

2019-12-14 06:07:11 | Weblog
茨城県かすみがうら市牛渡字浅間の台地上にあります。
霞ヶ浦を見下ろす台地縁です。
周りは荒地になっています。

全長28.6m、 後方部一辺長?m・高さ3.55m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後方墳です。

資料がほとんどなく詳細は不明ですが、古墳時代前期の築造と推定されています。

前方後方墳1基・前方後円墳2基・円墳8基(4基は消滅)からなる柳梅台古墳群を構成しています。
前方後円墳2基は近くにあるようでしたが、見つけることはできませんでした。






茨城県かすみがうら市・折越(おっこし)十日塚古墳

2019-12-14 05:41:05 | Weblog
茨城県かすみがうら市坂字折越3518ほかの台地上にあります。
「折越十日山1号墳」とも呼ばれています。
墳丘全体が樹叢や竹林で覆われています。



全長63.2m、 後円部径35m・高さ約5.4m、 前方部先端幅30m・高さ4.8m  の前方後円墳です。
前方部を南西方向に向けています。




                 (手前が前方部)


                 (手前が後円部)

(前方部)








(後円部)








発掘調査が1988年に行われています。
墳丘の周りには二重の周濠があります。
埴輪の出土は確認されていません。
後円部にある埋葬施設は、南東方向に開口する横穴式石室で箱型石棺が収められていたそうです。
石室の左右側壁には、赤彩色による縦線・横線・斜線が描かれていたそうです。
「太子古墳」と同様、装飾古墳と位置付けられています。
現在石室は埋め戻されていて見ることはできません。

古墳時代終末期・7世紀初頭頃の築造と推定されています。

昭和49年3月22日、かすみがうら市の史跡に指定されています。

茨城県かすみがうら市・坂稲荷山古墳

2019-12-07 05:48:30 | Weblog
茨城県かすみがうら市坂香取4014-1、坂東集落北西の台地上にあります。
「坂稲荷山1号墳」とも呼ばれています。。

全長70.6m、 後円部径40.7m・高さ約9.8m、 前方部先端幅39m・高さ6.4m  の前方後円墳です。
前方部を南西方向に向けています。
その前方部墳頂には稲荷社が祀られています。
板石は石棺材ではといわれています。





墳丘の周りには周濠があります。
前方部前面には、周濠を挟んで10基の円墳が1列に並んでいて、坂稲荷山古墳群を構成しています。
出土遺物など詳細は不明です。

古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。

昭和49年3月22日、かすみがうら市の史跡に指定されています。




                 (前方部)


                 (くびれ部)

(後円部)















茨城県かすみがうら市・富士見塚古墳

2019-11-30 05:49:54 | Weblog
茨城県かすみがうら市柏崎字稲荷山1553-3、西に筑波山・北と東に霞ケ浦・南に菱木川を望む丘陵頂部にあります。
「瓢塚古墳」と呼ばれることもあります。。
前方後円墳1基、円墳4基からなる富士見塚古墳群を構成しています。
富士見塚2号墳・3号墳(いずれも円墳)とともに復元整備のうえ、富士見塚古墳公園内に保存されています。


全長80.2m、 後円部径38.4m・高さ約8.5m、 前方部先端幅49.4m・高さ9m  の前方後円墳です。
前方部を東に向けています。
古墳は規模の割には急峻で背が高く、霞ケ浦を一望できる場所に立地しています。
湖上からの見栄えを意識したつくりになっています。







(前方部)



                (左に見えるのが霞ヶ浦)


(後円部)







          (奥が前方部、左に見えるのが霞ヶ浦)

1972年に測量調査が、1990年・1991年に発掘調査が行われています。
くびれ部南西側に造り出しがあります。

              (右階段下が造り出し部)

墳丘の周りには幅約16~26mの盾形をした周濠があります。
周濠の外には堤があります。




円筒埴輪や形象埴輪(人物・家・鹿や犬、猿などの動物)などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
盗掘を受けていますが、主体部は二つ確認されています。
後円部には木棺(粘土槨の痕跡)が埋葬されていたようです。
碧玉製管玉・ガラス製小玉・直刀・鉄鏃・鏡板や杏葉、辻金具、轡、歩揺などの馬具が出土しています。
前方部墳頂近くにある埋葬施設には、内壁を赤く彩色した箱型石棺が埋葬されていました。
壮年とみられる2体の人骨など複数の人骨が見つかっています。

古墳時代後期・5世紀末から6世紀初頭頃の築造と推定されています。

平成20年11月17日、かすみがうら市の史跡に指定されています。

ちなみにこの古墳の名前の由来は、晴れた日には標高35mの墳頂から富士山が望めることから来ているそうです。

茨城県かすみがうら市・野中1号墳

2019-11-23 06:11:57 | Weblog
茨城県かすみがうら市安食字太子の台地上にあります。
太子古墳の南東方向そう遠くない県道118号線脇にあります。
「瓢塚古墳」と呼ばれることもあります。
野中古墳群(前方後円墳1基・円墳15基→すべて消滅)を構成する1基です。

全長約28.2m、 後円部径10m・高さ約3m、 前方部先端幅7m・高さ?m  の前方後円墳です。

人物埴輪や馬形埴輪などが出土したといわれていますが、はっきりしていません。

墳丘の周りは笹竹藪で、墳丘に上ることはできませんでした。

古墳時代後期の築造と推定されています。


















               (石室入り口or盗掘坑?)

茨城県かすみがうら市・太子古墳

2019-11-23 05:41:08 | Weblog
茨城県かすみがうら市安食734-1の台地上にあります。
「太子1号墳」とか「大師唐櫃古墳」と呼ばれることもあります。

全長約60m、 後円部径?m・高さ?m、 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。
墳丘はほぼ消滅していて、半地下式の横穴式石室を覆う程度の小円墳が残されているのみです。





地元の人に「太子のカラウド」と呼ばれているそうです。

明治23年の開墾の折、横穴式石室が発見されました。
石室には箱型石棺が収められていたそうです。
石室は羨道の長さ1.5m、玄室の長さ2.3m・幅1.37m・高さ1.35mあるそうです。
石室内からは2遺体分の人骨と直刀・刀子・銀環・須恵器などが出土しています。

大正時代「大野延太郎」氏によって、石室(玄室)両側の壁に朱で描かれた小丸紋や矢印状文が多数(5段ほど)見つかったと発表されました。
茨城県南部ではまれな装飾古墳として注目されたそうです。
紋様はよく観察してみましたが、ほとんど消えてしまっているようでした。













古墳時代後期・6世紀末頃の築造と推定されています。

昭和52年5月2日、茨城県の史跡に指定されています。

茨城県かすみがうら市・風返大日山古墳

2019-11-16 05:41:42 | Weblog
茨城県かすみがうら市宍倉字大道北1022、宍倉風返集落の西・霞ヶ浦高浜入りを見下ろす台地北端にあります。
「風返2号墳」と呼ばれることもあります。




全長約55m、 後円部径46m・高さ6.3m、 前方部先端幅?m・高さ?m  帆立貝形の前方後円墳です。
前方部を南東方向に向けています。























昭和40年(1965年)から41年にかけて、日本大学考古学研究室による発掘調査が行われています。
その結果、後円部墳頂直下から箱型石棺が見つかっています。
石棺蓋上に直刀と鉄鏃が置かれていたほか、朱塗りの石棺内部から人骨・直刀・鉄鏃・玉類が出土しています。
墳丘裾部からは円筒埴輪片、前方部(造り出し部)からは鶏頭埴輪片が出土しました。
墳丘上に埴輪の配列がなされていたようです。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

「風返古墳群」を構成する1基で、古墳群で最初に築かれた首長墓です。

昭和49年3月22日、かすみがうら市の史跡に指定されています。

茨城県かすみがうら市・風返稲荷山古墳

2019-11-09 05:31:50 | Weblog
茨城県かすみがうら市安食風返1526、標高20mの木の枝状に広がる台地上にあります。
宍倉地区から隣の石岡市井関地区にまたがる地域に所在する「風返古墳群」を構成する1基です。
「稲荷塚古墳」とか「風返1号墳」と呼ばれることもあります。

全長約78.1m、 後円部径43.1m・高さ10m、 前方部先端幅57m・高さ8m  の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。




















墳丘の周りには幅20mほどの周濠があります。


埴輪の出土はありません。

昭和39年(1964年)8月1日から25日まで、日本大学考古学研究室による発掘調査が行われています。
その結果二ヵ所の埋葬施設が見つかっています。

後円部にある埋葬施設は、雲母片岩の大岩を使った南に開口する全長8m・幅2mの横穴式石室です。
前庭部・羨道部・前室・後室からなる複室構造です。
後室には「コ」の字型に並べられた3基の箱形石棺が収められていたそうです。
中央の石棺からは金銅製耳環が、東側の石棺からは頭椎大刀・円頭大刀・銀装刀子などが、西側の石棺からは金銅製耳環などが出土しています。

くびれ部にある埋葬施設には、雲母片岩でつくられた箱形石棺が埋葬されていたそうです。
円筒大刀・金銅製耳環・ガラス製玉などが出土しています。
この石棺から北西方向約1m離れたところからは、布に包まれた木箱に納められていたとみられる馬具1式(轡・杏葉・辻金具・鏡板・鞍金具など)が出土しています。
前室の奥からは直刀・鉄鉾・鉄鏃・銅鋺・杏葉・雲珠・辻金具・鞍金具・刀子などが、南側からは弓弭・刀子・直刀・須恵器などが出土しています。
これら出土遺物は、平成18年11月16日茨城県の文化財に指定されています。


6世紀後半から7世紀前半にかけて、4回の追葬が行われていたようです。

石室は埋め戻されたようで、開口部など見つけることはできませんでした。

古墳時代後期・7世紀前半頃の築造と推定されています。

この古墳の史跡指定はなされていません。

茨城県かすみがうら市・雷神前古墳

2019-11-02 05:50:13 | Weblog
茨城県かすみがうら市宍倉字馬場山、志士庫小学校近くの台地上にあります。

全長約58m、 後円部径23m・高さ約2.5m 前方部先端幅?m・高さ?m  の前方後円墳です。
前方部は消失していて、現状円墳状態です。
後円部墳丘上には小さな社が祀られています。


出土遺物は確認されていません。
その他詳細は不明です。


          (手前の鳥居あたりが消失した前方部)



















茨城県かすみがうら市・熊野古墳

2019-11-02 05:26:00 | Weblog
茨城県かすみがうら市市川大塚40、市北部・国道6号線沿いにあります。
常磐自動車道・千代田石岡インターチェンジ近くです。
「市川1号墳」と呼ばれることもあります。




全長約63m、 後円部径40m・高さ約8m、 前方部先端幅23m・高さ3.4m  柄鏡形の前方後円墳です。






前方部が極端に低くなっています。




その前方部にはいくつかの小さな祠が祀ってありました。




後円部墳丘上約16mほどの平坦部には、熊野権現社が祀られています。






墳丘の周りには周濠はなかったようです。
また葺石も施されていません。

1988年に発掘調査が、1996年に測量調査が行われています。
土師器製の低部穿孔土器の破片が発見されていて、5世紀前半頃といわれていた築造時期が、4世紀代にまで遡る可能性もあるそうです。

昭和52年5月2日、茨城県の史跡に指定されています。