日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

どうにもならない現実の中で、どうしようもなく生き続けている私が感じていること

2024-01-26 | 日記
どうにもならない現実の中で、どうしようもなく生き続けている私が感じていること




 久しぶりにブログ記事を書こうかという気になったものの、それ以上にもういいのではないかとの思いが強くて、そのままで止まっていた。正直なところ、書けそうもないというか、書けないのである。もう何を書いてもどうにもならない、どうしようもないではないか。こんな思いが私を打ち砕くのみ。年を追うごとに、無力感は強まり、自分自身に対する愚痴も出なくなった。


 そんな私だが、まあ少しだけでも書いてみようか。とにかく、世の中の出来事を見聞きするだけで、もう疲れてしまうのだ。最近は、よく「寄り添う」「共に生きる」云々の話を聞くことが多い。その文言はそれなりに響きはいいのだが、格差社会が身近な事として当たり前の現在を踏まえるとき、格差社会と寄り添うとか共に生きるとかをっ表現しているように、私には思えて仕方がない。


 そんな社会を前提としたうえでのよりそうであり共生なのだから、当然ながら相当に気色悪い文言であるのだ。差別はダメだというのは簡単だが、私たちの存在それ自体が差別を前提としている。それゆえ、私たちができることは「ごくごく限られたものでしかない」ことになるのだが、そのごくごく限られたことくらいはすべきであるとの声も聞こえてくるのは疑いない。


 だが、これは相当に厄介なことだ。私たちが日々の生活を送ること自体、今ではかなり大変であるのだから、それを踏まえてごくごく限られたことを、私たちの方に背負うことそれ自体がとてつもなく、ごくごくどころか、限られたというどころか、途方もないことであることに今さらながら気がつくのではあるまいか。私たちという場合、そこには障碍者もいれば高齢者もいる。高齢者はいつしか何らかの障害を抱えざるを得なくなり、自然と「手帳」を持たない障碍者となってくることからも、すぐ前で述べたように、ごくごく限られたことに向き合うこと自体が困難になってくるのは致し方なかろう。


 先頃行われた東京都八王子市長選挙の投票率38?%から判断しても、ごくごく限られたことさえ難しいのではあるまいか。否、選挙に出かけることはとてつもなくハードルが高いということなのだ。そこにはいろんな事情が介在していて、簡単に「あるべき論」では片づけられないのだろう。もっとも、「それがどうした」ではあるのだが。


 とにかく選挙に行って1票を投じることからしか何事も始まらないし動かないのは確かなことだが、それがのっけからダメなのだから、この先何をかいわんやなのだ。今の現実を少しでも変えたいと願う人は、先ずは投票に行って、それを数十年続けてみて、そこから選挙では何も変えられない、変わらないということを身をもって学ばなければ、この先の対処法を考えることさえできないだろうから、どうしようもないことになる。それゆえ、その意味でも選挙に行かなければ、なのだ。


 勿論、これまた虚しすぎる話だが、その虚しさを感じることも大切だと言いたいのだ。これまた「それがどうした」となるのは必至だが。所詮はそんなものでしかないのだよ人生とは、である。この繰り返しの何合目に私は差し掛かっているいのか、いまなおわからないものの、今の私はまた怒りが増してきている。おかしなというか不思議な社会に対して。「LGBT」問題にはしつこいほどに敏感に反応する社会なのに、「格差や貧困、障碍者差別」問題には恐ろしく鈍感に反応する社会。これはおかしな社会ではあるまいか。


 私はそう思う。おかしな私が構成員の一人だから、おかしな社会となる云々の前に、私と異なり「真っ当な?発言」をしている普通のお兄さんお姉さん、おじさん、おばさんがテレビのコメンテータ―と称されて発言している。ほとんどすべてがこのおかしな理不尽な社会の擁護者となっていることから、そして私たちももう相当にいかれてしまってきているから、彼らの発言のおかしさというか大政翼賛会的な物言いに気がつかないのだろう。否、気がついているはずだ。視聴者の多くは暇つぶしで、何でもいいのが基本的姿勢だ。


 それにしても、日本社会は「辞書」的な知識で完全武装した物知り顔の知識人で一杯となってしまった感。受験偏差値の高い高校生がたとえば東大や京大、あるいは早稲田や慶応に入り、そこから大学院に進学して、大学の研究者となった時、とくに私は政治学関係の分野しかわからないが、とても素直というか、それこそ辞書的知識をさらに満載した研究者しか見当たらないのだ。ほとんどが欧米研究を日本語に訳した域を出ないというのが、私の感想だ。


 池上某氏のような辞書的知識を何ら疑うことなく、それを学問の前提として数十年も研究してきた人たちで大学は支配されているから、それに異を唱える者たちはほとんどが弾き飛ばされるか消え去るのみといった具合だ。ロシアのウクライナ侵攻時に登場した研究者のほとんどはウクライナ側に立ち、日本政府や欧米連合政府の見解を代弁するのみであり、ウクライナにもロシアにも偏らない議論はほとんどメディァではお目にかからない有様であった。なお、中国と台湾の関係問題においても、これまた同様な話のオンパレードである。


 ところで、いま自民党の派閥がどうのこうのと、ある時点から急にお金というか脱税問題追及の姿勢から様変わりしてしまったが、大学でも似たような学閥とかのグループができてしまう。それは仕方のないことである。。私たちの社会全体がそうした閥というか群れを基にしてつくられていることから、どんなにああだこうだと言っても、自然とそうなってしまう。それこそ「親分ー子分」関係を基礎とした差別と排除の人間関係が前提としてつくられてきたことから、そうした仕組みに誰しも組み込まれていくのは致し方あるまい。


 自民党の派閥を糾弾するマスコミ関係者も、その会社の中での何某かの閥というかグループが出来上がっているのではあるまいか。これは善悪の問題でもなく、解散すべきどうのという問題で片付けられるものではない。私たちの日本を見ても、その中には幾数幾層ものの「親分ー子分」関係が存在しており、それらが日本社会を創っていることを踏まえれば、自民党の派閥を解消することは、ある時点で実現できたとしても、いつしかまた別の形で作り替えられるに違いない。 
 
 問題をすり替えてはいけない。それは自民党の派閥の問題ではなく、裏金を作って、こっそりとうまく処理してきたという「犯罪」なのだ。ところが、そこに十分にメスを入れることができない。いろいろな形で政権党が守られているのだ。その際、そこに不当な圧力や忖度が介在しているのは、これまでの森友や加計学園問題や桜を見る問題でも明らかなことだろう。


 ところが、それが私たちのすぐ前に見えているにもかかわらず、私たち自身がその犯罪を裁けないままに、これまで見過ごしてきたということである。それゆえ、犯罪かどうかも未だ不明ということになる。こうして見てくると、裏金問題から派閥問題にすり替えられた話の流れから、今度は私たち主権者としての国民の問題が、巡り巡って浮上してくることになる。


 そして、その国民はと言えば選挙にもその過半数は行かないということから、彼ら主権者としての国民の責任問題を、自民党の裏金問題、派閥問題にすり替えていることにも繋がりかねないのだが、それには気がつかない。それで誰が得をするのか。それは国民も先刻承知のはずだ。それでも、行かないのだ。そこには、政権がたとえ交替したとしても、「政治」の中身はほとんど変わらないことを、国民はよくわかっているからに違いない。


 そこにはたとえ、政権党の顔が替わったとしても、「親分ー子分」関係を前提とする私たちの人間関係は変わらないのだから、「政治」も変わらないのは当然だろうとの思いが働くのではあるまいか。卑近な例を挙げると、日本共産党委員長の顔が替わったが、それでもこれまでの委員長であった志位氏とその後釜に座った田村氏との「親分ー子分」関係は会長と委員長の関係から伺えるように変わらないだろうから、日本共産党とその「政治」は今後も変わらないということである。もっとも、これは私の勝手な見方であるが、それでも、私はそう感じている。


 今回記事では、「親分ー子分」関係を、日本の国内に限って話をしているが、そこには日米関係、日中関係を始めとする対外関係における「親分ー子分」関係の力学が働いているのは言うまでもない。それに関連して言えば、私たち有権者の国民の6ー7割近くが選挙に行かないのは、たとえ日本のリーダーの顔が替ったとしても、親分の米国の意向に従うのみで、日本の政治の中身も変わらないとの判断から、そんな風に政治から遠ざかってしまったのかもしれない。


 それはそうだとしても、否、だからこそなのだが、選挙で1票を投じない限り、何も始まらないし、何も変わることもないのは、これまた言うまでもない。「それはそうなのだが」、との思いを引きずりながら、「それでもなお」の思いが強まるか弱まるかは、私たち一人一人の判断に従うしかあるまい。そして私は今、選挙に行く前に、やはり私の1票を投ずるに値する新たな政党を、私のような思いを共にする人たちと手を合わせて結成する必要性を強く感じている次第だ。



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