日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(4)

2024-02-05 | 日記
(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(4)




 今回記事を書く前に、前回記事投稿後に〈(阿修羅)総合アクセスランキング・瞬間〉に掲載されていた記事「ガザにより、ヨーロッパ哲学の倫理的破綻が露呈された(寺島メソッド翻訳NEWS)http://www.asyura2.com/23/warb25/msg/328.html 投稿者 HIMAZIN 日時 2024 年 2 月 04 日 10:57:34: OVGN3lMPHO62U SElNQVpJTg http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-2248.html ガザにより、ヨーロッパ哲学の倫理的破綻が露呈された<記事原文 寺島先生推薦>」に気がついた。〈阿修羅〉の記事の中でも私がいつも注目している中の一つ[(寺島メソッド翻訳NEWS)http://www.asyura2.com/23/warb25/msg/328.html 投稿者 HIMAZIN ]の投稿記事である。


 そこに紹介されている記事内容は、私がこれまで批判的に論及してきた「システム」の下で提供され続けてきた欧米産出自の「普遍的価値」と「普遍主義」に対して厳しく論難している。私もその内容には納得している。こうした見方というか考え方が、もっと従来の左翼運動を支えてきた人々にも共有されることを期待するのだが、おそらくそうした私の願いは容易には叶わないだろう。


 そのためには、これまでの民主主義論のコペルニクス的転回を必要とするのは勿論のことであると同時に、大塚久雄氏が『社会科学における人間』(岩波新書 黄色版)で推奨していた「ロビンソンクルーソー的人間」存在と、彼(彼女)が一人の独立した権利・義務関係の責任主体としての個人を担い手としてつくられてきた、「近代」以降から面々として続く私たちの社会構造の根本的見直しを迫られるに違いない、と私はみている。


 それは同時に、日本国憲法に対しても向けられることになる。従来の「護憲」対「改憲」といった次元とは異なる憲法上の論議を必要とするのだが、おそらくこうした方向性へ、私たちが導かれる公算ははるかに引くと言わざるを得ない。それほどまでに私たちは、これまでどっぷりと近代的「知」のヘゲモニーによって洗脳され続けてきた、と私は言わざるを得ないのだ。それに関連して言えば、あの戦争での敗北後のGHQの占領統治とその後の米国による日本支配における由々しき問題は、近代憲法の流れを汲む日本国憲法体制の下で、こうした近代的「知」の抱える不条理を直視しその宿痾を告発できないままにあったことである、と私は思うのだ。


 その一番の問題は、前回記事でも述べたように、私たちの共同体として位置する国家を構成する人間関係の基本的単位は、一人の独立した諸個人が前提とされているのだが、それは〈[A’]→[B’]→×[C’]〉のモデルで描かれる差別と排除の人間関係を前提としてつくり出される人間存在であるということなのだ。もう少し直截に言えば、〈[A’]>[B’]>[C]〉の図式で示される差別と排除の関係を前提としているのだ。こうした人間関係を日本国憲法体制はその裡に組み込んでいると同時に、近代的「知」の営みは、そうした人間関係を当然の前提として展開されてきたということなのだ。


 こうした観点から、前回記事で紹介した〈?世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」が興味深いデーターーー〉を見直すとき、あるいはトマ・ピケティ著『21世紀の資本』で描かれているフランス革命前夜から続くおよそ230年間にもわたる構造的格差の存在を確認するとき、私は先のモデルで示した差別と排除の人間関係の存在とそれを支え続けてきた近代市民革命以降の近代の憲法体制に目を向けざるを得ないのである。


 さらにそこから私が強調しておきたいのは以下の点である。すなわち、近代以降の世界各国の憲法体制は、私の語る「システム」論で言及してきた{[A]→(×)[B]→×[C]}のモデルに示されるように、差別と排除の「親分ー子分」関係を前提としてつくり出されてきた「システム」の下で、つまり市民革命以降の「システム」においてはA(文明)、B(半開)、C(野蛮)の関係を前提としながら、それぞれのグループにおいてその出現を見たということである。


*ここで行論の都合上、Aの文明を西洋文明に、Bの半開とCの野蛮を非西洋文明として位置づけておく。なお、文明、半開、野蛮の区分は福沢諭吉の著書『文明論之概略』に従って使用していることを断っておきたいい。


 私の語る「システム」論で示される「システム」から見れば、いわゆるAの「西洋文明」はB(半開)、C(野蛮)から成る「非西洋文明」との差別と排除の関係からつくり出されてきたということである。そこではAが差別し排除する側に位置し、それに対してBとCはAによって差別され排除される関係に位置している。さらにここでの関係に付言すれば、BはAとともに、Cを差別し排除する関係にも位置しているということである。


 ところが、そうした関係は1970年代を分水嶺とするかのように構造転換・変容していく。すなわち、1970年代以降から今日にかけてB、CAの関係から成る新たな差別と排除の関係をつくり出す「システム」の形成と発展の歩みが見られることとなる。そこでは、これまで差別され排除されてきた非西洋文明諸国が、差別し排除してきた西洋文明に位置するAを排除し差別する側に、その立場を逆転し始めることになる。そうした現実を踏まえるとき、冒頭で紹介した〈阿修羅〉の投稿記事の論者であるハミド・ダバシが「道徳的堕落」の中で強調している「くだり」は、再考されるべきではないか、と私は言わざるを得ないのだ。


 ここにそのくだりを引用貼り付けておきたい。そのくだりは、ーーー私に言わせれば、パレスチナに関するハバーマスの道徳的破綻は、ヨーロッパ哲学とそれ以外の国々との植民地的関係における転換点を示している。世界はヨーロッパ民族哲学の誤った眠りから目覚めたのである。今日、私たちがこの解放を得たのは、パレスチナ人のような民族の世界的な苦難のおかげである。彼らの長期にわたる歴史的な英雄崇拝主義と犠牲によって、「西欧文明」の基盤にあるむき出しの蛮行がついに解体されたのだ。ーーーとして述べられている。


 私はここに描かれている今後の世界が向かう方向性に関するダバシ氏の見方があまりにも楽観的に過ぎるのではないかとの危惧を抱いている。西洋哲学や社会科学に対する氏の評価は、私も大いに頷けるのだが、私の語る「システム」の中で西洋文明は勿論のこと、非西洋文明も形作られてきたことを鑑みれば、今後もBやCグループ内における、またAに対する差別や排除の関係を前提とした新たな植民地支配が引き起こされることを、私は危惧すると同時に、今この瞬間にもおきていると言わざるを得ないのだ。


 その意味では、これまで常識とされながらも西側諸国の知識人によって無視あるいは看過され続けてきた〈「西欧文明」の基盤にあるむき出しの蛮行〉を非西洋文明が継承する可能性を否定することはできないのではあるまいか。それゆえ、蛮行は解体されるどころか、「システム」の今後ますますの発展とその強化(高度化)のために、継続されるのは必至である、と私はみている。


 すなわち、金の成る木としての「戦争」を組み込んだ「システム」それ自体の歩みを前提とするとき、第2、第3の「パレスチナ人」が世界の此処彼処で生み出されるに違いない、と私は考えている。と同時に、第1の犠牲者であるパレスチナ人は、イスラエル建国の前後から続くA、B、Cから構成される「システム」の形成と発展の中で「システム」の人身御供とされたホロコースト・ジェノサイドの犠牲者としての存在でもある。


 そこで問題とされるべき「システム」は、確かにAの文明に位置した諸国とそこに暮らす人々がB、C諸国とそこに暮らす人々を差別し排除しながら、彼らを巻き込みながらつくり出されたと位置づけ理解するのは当然なことではあるものの、だからと言って、BとCの諸国とそこに暮らす人々がすべてそうした差別と排除の一方的関係に甘んじてきたわけではなかったのである。彼らもAとそこに暮らす人々を利用しながら、なんとかしてこの「システム」の階梯の上方へと這い上がろうとしていたのだ。


 そうした「システム」内での「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」過酷な生存競争から弾き飛ばされた存在がこの第1のパレスチナ人であり、さらにその後に続くであろう第2、第3のパレスチナ人とその予備軍ではなかろうか。いずれにしても、私の語る「システム」は、西洋文明と非西洋文明とが合体されてできた混成の「システム」であることを銘記しておかなければならない。


 それは一体何を意味しているのだろうか。これまで差別され排除されてきたとされる非西洋のB、Cグループを構成する諸国とその国民は、否が応でも、これまで西洋の専売特許とされてきたジェノサイドを、今後は自ら引き受けたり、それに手を貸すことを余儀なくされるということである。それゆえ、私はダバシ氏の指摘するように、それほど楽観的には今の情勢を捉えることはできないのも、私の正直な見方である。


 それを断った上でさらに言えば、ダバシ氏によるこの記事は、これまで私たちが看過してきた西洋哲学や社会科学によって紡ぎだされてきた近代的「知」の抱える病根を、私たちに垣間見せてくれたという意味において、私は率直に感謝を申し上げたい。私自身も、この記事に接することで大いに勇気づけられた次第である。と同時にまた、私たちの社会の隅々に至るまで、今なお圧倒的とも思われる近代的「知」の影響力を前にして、なんともし難い思いを禁じを得ないのだ。


 そんな私だが、それでも今はダメモトの精神で、(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」の結成に向けてあれこれと思案し模索する悶々とした日々の中で、何とか前を向きながら、これまたダメモトの精神でもってカラ元気ながらも生きている次第だ。



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