日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№45私の語る「システム」論から、改めていわゆる「科学的根拠」とされる化学なるものの〈暴力=権力〉との「一体的関係」を問い直すとき

2023-07-20 | 日記
№45私の語る「システム」論から、改めていわゆる「科学的根拠」とされる化学なるものの〈暴力=権力〉との「一体的関係」を問い直すとき




(最初に一言)


 いよいよ「海洋放出」が間近に迫ってきた。何を放出しようとしているのか。正直なところ、私にはその成分というか正体が掴め切れないままなのだ。以前のニュースでは、確か、処理済み汚染水と言っていたように記憶しているのだが、いまでは、単に処理水とされている。数日前のNHKニュース報道では、「処理水を薄めて海洋に放出」と語っていたが、まったく意味は不明だ。私たちの議論の出発点は、原発事故前の「1ミリシーベルト」ではないのか。




 とにかくあきれてものが言えないのは、私一人ではあるまいし、事実、海洋放出に関するネット情報は、テレビのそれとは違って、賛否両論の立場から、喧しく提供されている。それにしても、今では1ミリシーベルトは20ミリシーベルトまで許容される始末なのだ。前者の科学的根拠が、今では別のそれに置き換わっている。こんなにも簡単に、科学的根拠が操作されてしまっているのに、一体、私はその科学とされるものの、何を信じればいいのだろうか。


 これまで生きてきた私の経験からすれば、権力の保持者は、彼らの都合に合わせて、科学やその技術を独占してきた、科学者(研究社)もその例外ではない。権力に奉仕する科学者が正しく、抵抗・反対する科学者は正しくないとされるのだ。それゆえ、前者の提示する科学的根拠は絶対とされ、後者のそれは、事実を隠蔽したり歪曲するものとして、批判されたり無視されてきた、と私はみている。


 もっとも、たとえそうではあったとしても、事故前の年間の許容されていた被ばく線量は1ミリシーベルトとして共通の了解事項であったはずではないのか。それが事故後は、なし崩し的に、権力者に都合のいいように、新たな科学的根拠を前提としながら、改変されてしまった。まさに、それは権力という暴力装置のなせる業である。何のこともない。事故前から、ありとあらゆることを想定しながら、権力保持者は、原子力を、その平和利用という美名のもとで、さらなる開発にいそしんでいたのだから、最初から結論ありきなのだ。何が何でも途中で、その歩みを中断させるわけにはいかないのだ。


 私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉にとって、原発は金の成る木としての「システム」にとっては必要不可欠なエネルギー源の一つである。それゆえ、原発の稼働に必要なウランとウラン鉱山は、なんとしてでも守らなければならなくなる。そこから、それゆえ、ウラン採掘にかかわる労働従事者と、そうしたウラン鉱山に端を発する公害によって、その周辺に暮らす人々の生活を破壊することになる。これに関しては、多数の研究書から学ぶことができる。


 こうした問題を考えていくとき、事故前の1ミリシーベルトの許容量は、こうしたウラン採掘労働者や、ウラン鉱山の周辺で暮らす人々には、最初から適用されるものではない。これは国内の原発作業労働者にも、該当することである。これらのことから、私が教えられたことは、私という人間性にかかわる問題だ。私ができない仕事や暮らしを、私は今でも、平気で私ではない誰かに押し付けて生きてきたし、生きているのだ。この私という存在のつくり出す暴力を、私は口では許さないというのだろうが、現実にはそれを許容し、さらには放置したままである。




(最後に一言)


 私は海洋放出には断固反対である。と同時に、それ以上に、原発とそれをつくり出す〈「システム」とその関係の歩み〉に対しても、反対である。だが、そのためにはそれを言うだけでは元より、何の力にもならない。ウラン採掘労働者や国内の原発作業労働者の生存を保障できる「ふへんてきかち」を、これまでの普遍的価値に替えて一刻も早くつくり出すことが大事である。


 私たちは、私の語る差別と排除の関係を前提とした「システム」の下で生きているのだが、そのために、どうしても私たちの社会の中で、自己決定権の獲得とその実現に際して、「負け続ける人々」を当然の前提としなければならなくなるのである。そんな理不尽な生き方は避けたいはずだろう。それを許し続ける結果として、今回の海洋放出に至る事態が導かれる、と私はみている。


(追記)


 今回記事も、またまたどうにもならない話で申し訳ないのだが、この私自身の暴力というか暴力性を自覚・自戒しない者が、どうして、私たちがその一員となって構成している国家や政府の暴力・暴力性を批判できると言い得るだろうか。



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