日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めて中国習近平主席のサウジアラビア訪問と中国と湾岸アラブ諸国との連携強化について再考するとき

2022-12-12 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて中国習近平主席のサウジアラビア訪問と中国と湾岸アラブ諸国との連携強化について再考するとき


(最初に一言)

 毎日いろいろな事件や出来事はあるものの、私の語る「システム」にはほとんどなにも影響することはなく、それで記事も書かないままであったが、私の安否確認も込めて記事を書いておこうと思った次第。


 今回の記事タイトルにも示されているように、習近平中国国家主席によるサウジアラビア訪問と湾岸アラブ諸国との連携強化の動きは、これまで構築されてきた中国と中東諸国との深い関係を、改めて世界中に知らしめる大きな出来事であった、と私はみている。それゆえ、私は今回の習氏のサウジアラビア訪問に至る背景について、手前味噌ながらも私の語る「システム」論から、すなわち〈「システム」とその関係の歩み〉との関連から、ここで捉え直すことの重要性を確認しておきたかったので、以前の三つのブログ記事を貼り付けたことを、断っておきたい。。


*一つ目の記事
(2022,2,1)

私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき


(最初に一言)

現下のウクライナ危機の起点は、キッシンジャー、そしてニクソン訪中に、そしてその中間点は、中国の「改革・開放」路線とソ連のアフガン侵攻の「同時並行」的な始まりに、そしてその終点は、中国の世界の工場、そしてその後の覇権国へと向かう歩みと、その流れに呼応する形でのソ連の「解体」とそれに伴うロシアからのウクライナ分離工作の「成功」と、「産物の国」としてのロシアの限界露呈に、(それぞれ)端を発している。


行論の都合上、前回記事(2022,1,30)のあるくだりを以下に引用しておく。


ーーーさらに、いま私たちが生きている「システム」は、B、C、Aの関係から構成されるそれであり、Bの中国やロシアは、今後ますます自らの自己決定権の獲得とその実現に向けて「努力」を惜しまないはずだ。ーーー


B、C、Aから構成される1970年代以降から今日へと至る〈「システム」とその関係の歩み〉の性格上、上記のような動きを中国もロシアも示すのは当然だとしても、ロシアには屈辱としてしか受け止められないようなる苦い記憶が、絶えず蘇るはずであり、そこから今一度、強いロシアを目指すのならば、どうしても、「産物の国」から脱して「製物の国」へと転換しなければならない。そのためには、ソ連のかつての重化学工業地帯を構成していたウクライナを、是が非でも傘下に置くことが必要となるのだ。

元々は、〈「システム」とその関係の歩み〉の下で、換言すれば、〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉下で、中国をBグループのトップに位置付けようと、覇権国であった米国が中心となって、中国の後塵を拝するように、ロシアを位置付けることに躍起となっていたのだが、それにもかかわらず、プーチンの指導するロシアは、そうしたロシア包囲網を打ち破るべく、着々と準備を進めてきたということである。


こうした点を踏まえながら、現下のウクライナ危機の起点から終点に至る流れを、B、C、Aの「システム」の形成と発展という観点から、もう少し広い文脈の中で位置付け直してみるとき、以下のように要約できるのではあるまいか。そしてその際に、私がとくに強調したい、注目してほしい箇所は、*と**のくだりである。


「現下のウクライナ危機」の起点からその中間点、そして終点に至るまでの簡単な要約


1970年代以降の〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉を語る際に注目すべき点は、中東・アフリカの支配をめぐり繰り返されてきた従来の米・ソの対立、敵対と、両地域における米・ソの子分間の代理戦争、衝突とそれを介した地域の支配権の確立を巡る抗争といった図式が、米・中のそれに置換されることとなる。しかしながら、冷戦崩壊という事態が発生してから、いきなりというわけにはいかないことから、その準備が必要であろうことは誰にも推察できるだろう。

しかも米・ソ対立といってもその内実は米国がAの先頭に位置しながらBのソ連と対峙する構図であったように、米・中の対立といっても未だ中国の力は十分ではないことに目を向ける必要がある。さらに重要なのは、米国はその敵対、対立する中国を米中覇権連合の形成と発展の歩みの中で創りだしてきたと言うことである。もちろん、それを演出させたのは〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉に他ならない。

以下でも述べるように、ニクソン訪中からベトナム戦争の終結と文化大革命の収束、改革・開放政策の展開、先進国における「小さな政府」の出現、ソ連のアフガン侵攻と米国のタリバン・イスラム勢力に対する支援、冷戦の崩壊、湾岸戦争へと続く流れは、まさにCグループの中東、アフリカ地域の支配権をめぐる従来の米・ソから米・中の構図に置換させるための〈「システム」とその自己完結運動が準備した壮大な歴史的演出であった、と私は理解している。

そうした過程において、中国は世界の工場となり、世界の市場となり(改革開放路線の下で米国に代表される西側先進国からの外資導入の下で人件費の安い中国人労働者の手による安価な製造業製品を洪水のように世界中に輸出する中で、その主要な原料供給地であると同時に、中国製品の受け入れ地でもある中東やアフリカ諸国の経済発展は、中国の経済発展の下に組み込まれることにより、ますますソ連の、あるいは米国の中東やアフリカ諸国に対する支配力、影響力は低下すると同時に、ソ連(あるいは米国)自体の国力の低下を導くのである。

*そうした中国と中東・アフリカの関係に加えてソ連のアフガン侵攻による軍事的、経済的力の失墜は覇権システムの下でのソ連の支配力の低下を招き、冷戦崩壊後のソ連邦の解体へと向かう流れに対して、どうすることもできないままに、結局のところ、ソ連の解体を招くことになる。

**ソ連自体の解体はその後のロシアから製造業の基盤を構成するウクライナのソ連からの離反を招くと同時に、解体後のロシアの経済発展が第1次産業に、とくに石油や天然ガスの開発といった天然資源に特化した「産物の国」としての産業構造を育成することに向けさせるのである。ここに中国が世界の工場となりそうした歩みの下で国力を増大させていく中で覇権国となっていく、そしてBグループの先頭に位置する「お膳立て」が出来上がるのである。

勿論、それも〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉がそうさせるのである。また、西側のヒト・モノ・カネの大移動の受け皿となる中国は、Bグループの先頭に位置しながら、米国の支援の下で、中国は新たな「システム」の高度化を目指すのである。こうして、米中覇権連合の形成と発展の歩みが進行していくことになる。

その際、「システム」の高度化は、いつも「システム」内の構成員の差別と排除の関係を前提としていることから、1970年代以前のシステムの高度化においてはBやCにおいて、とくにCにおいては低度化の歩みが長期間にわたり維持されだが、70年代以降から今日にかけては、CとAにおいて、とくにかつての先進国が位置していたAにおいて低度化の進展は免れないし、事実その傾向はますます強まっている。

こうした〈「システム」とその関係の歩み〉の中で、中東やアフリカではⅠ期([権威主義的性格の政治→経済発展])の「段階」の前期から中期へ、そしてさらに後期の段階へとその歩みを進めている。そのために同地域では地域内での紛争や戦争が繰り返されている。その原因としてまず考えなければならないのは、70年代以降の「システム」の再編と変容であり、その「システム」の先頭に位置するBの中国とロシアの動向である。

中国がⅠ期からⅡ期の段階へとその歩みを高度化させながら、今や2基の段階の特徴である[経済発展→分厚い中間層の形成]の段階の前期から中期へとそして後期の段階を目指すところまで高度化している。こうした中国の経済発展と民主主義の発展の関係における高度化は21世紀に入ってから2040、50年頃に、明らかなものになってくる。改革・開放路線の開始からおおよそ60年から70年くらいの月日を要している。

中国の発展の段階が高度化するに従い、差別と排除の関係も同様に強化されることから、Cの中東やアフリカにおいて政情不安が高まるのは必至となる。Cにおいては多くの衝突や内戦が21世紀に入って顕著となるが、その理由は同地域の宗教的、民族的対立が直接の原因ではない。「システム」の再編と変容の歩みが直接的原因である。ーーー


さて、ここまでの「要約」を踏まえながら、今度は、以下に示しているように、論の展開を少し変えながら、さらに「現下のウクライナ危機」についての考察を進めてみよう。その際、私は、〈「システム」の自己完結運動の歩み〉から、「歴史」の「IF」を考えてみたいのである。

もしあの時、―――ならばとか、逆に、ああ、そのように歴史は動いていたのか、そしてこのように、つながるのか、というような「不思議さ」を見い出すことができるのではあるまいか。それと同時に、歴史には、私たちがよく人生において感じるような「IF」はないのではあるまいか。

そこには、いつも「必然性」があるのではなかろうか。たとえば、1992年のマーストリヒト条約によるEU市場の発足を、1989年の冷戦の崩壊と1991年のソ連邦の解体と結び付けてみるとき、歴史年表に多少の誤差があったとしても、そこにはいくつもの因果関係を確認できるのではあるまいか。→すなわち、ソ連邦の解体を受けてのEUの発足という流れとなるのか、あるいは逆に、EUの成立の流れを受けてのソ連邦の解体へと至る流れとなるのか、という具合にである。

また、以下に見る中国の改革開放路線の下での中国の世界の工場への歩みは、EUの発足による中国製品の受け皿としてのヨーロッパ市場の成立を促す歴史を構成したのかもしれない。ここにも明確な因果関係を確認できるのではあるまいか。もっとも、EECからECへの流れと、ECからEUへの流れは、連続した発展の歩みとして位置づけられない、と私はみている。前者は1970年代までの私のモデルの世界・セカイの歩みと、後者は1970年代以降の世界・セカイの歩みと結び付けて理解される必要がある。
  
そうしてみれば、ソ連邦の解体は、冷戦の崩壊を受けての「その後の出来事」となるだろうし、ロシアの成立は、ソ連邦の解体の後になるだろう。それは、もしソ連が解体していなければ、ロシアの成立には至らなかったであろうし、冷戦の崩壊が起こらなければ、ソ連邦の解体もなかっただろう、という話につながる。

そこから、話を大胆に飛躍させていくならば、1972年のニクソン訪中が、もしなかったならば、1978,79年の改革開放もなかったであろうし、1985年のプラザ合意もなかったのではあるまいか、ということになるし、そこからまた、ソ連邦の解体も起きなかったということになる。そこから今日のウクライナ問題も別の形に導かれたかもわからない。こうした出来事の背後には、必然的な因果関係が存在しているのではあるまいか。

さらに、大胆に飛躍させて語るならば、大航海時代がなければ、スペインの覇権国への道はなく、それがなければ、オランダ、イギリス、アメリカ、そして中国へと至る覇権国の興亡史の歩みもなかったであろう。そこから1970年代までの私のモデルの世界・セカイの歩みも、すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}(共時態モデル、省略形)も見られなかったであろうし、それゆえ1970年代以降のセカイの歩みも、すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}(共時態モデル、省略形)の関係の形成と発展の歩みも導かれなかったであろう。


ここまでの話を踏まえて、さらに言及すれば、私のモデルで描く世界・セカイの形成と発展のために、1970年代以降の「システム」は、いくつかの出来事を準備したと考えられる。EUの創設、単一市場の下で、中国の経済発展を助ける。そのことが、やがてはソ連の崩壊を導くことになる。

レーガン政権下の「スター・ウォーズ計画」は、中国の改革開放政策の実現に、貢献したのではあるまいか。また、中国の経済発展を助ける、そうした流れを、日本ではプラザ合意が担ったのではないのか。このように、ヨーロッパ(EU)、米国、そして日本の出来事が、中国の経済発展を助け、そのことが1970年代以降の「システム」の歩みを、確固たるものにしていったのではないだろうか。

こうした出来事は、ソ連でもアフリカでも中東でも見られる。ソ連のアフガン侵攻。それが今日のISにつながる。また、アフリカでの内乱、内戦の頻発によって、「金の成る木」としての「システム」の高度化を促進する。これらの出来事は、一見したところ、今日のウクライナ危機とは無縁であるかのように思われるかもしれないが、そもそもウクライナ危機は、B、C、Aの〈「システム」とその関係の歩み〉の下で導かれていることを鑑みれば、両者の間には、密接な関係がある、と私は理解している。

さて、1972年のニクソン訪中について、もう少し触れてみたい。ニクソンを中国へと向かわせたのは、「システム」の歩みと、その「システム」の歩みにおける「段階」がそうさせたのだと、まず理解することが大切である、と私は強調しておきたい。。こうした私の見方に対して、キッシンジャ―と彼が奉仕するウォール・ストリートの国際金融勢力の存在を、ニクソン米国大統領を訪中させた最重要の理由として挙げる論者がいるが、それは一面的な答えとはなっても、そのすべてを説明するには至らない、と私は言わざるを得ない。

それでは、このような私の指摘を踏まえて、それでは、〈「システム」とその関係の歩み〉をもとに、ニクソン訪中について、さらに考察してみたい。「システム」の歩みは。なぜ1971年、72年頃に、米国(中国)を中国(米国)に結び付ける動きをしたのか、しなければならなくなったのかについて、「システム」の自己完結運動という観点から考えてみたい。

また、こうした観点から、以下の問題についても指摘しておきたい。すなわち、1970年代までの〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉は、何故ある時期(段階)において、先進諸国で分厚い中間層をつくろうとしたのか、という問題である。

その理由としては、彼らがシステムの中心的担い手となって、差別と排除の関係(仕組み)の高度化を推進するためであったことが考えられるだろう。そのことが、「システム」の「金の成る木」としての大切な目的を実現させることに与るからである。そのために、戦争は重要な役割を担う。戦争によって、「システム」の高度化が、さらに促進されることになる。

しかし、「システム」の高度化は、ある段階で(ある時期に)、行き詰まりを見せることになる。その理由としては、「システム」がこれ以上、分厚い中間層を育成できなくなるからだ。育成する力を「システム」が失うのだ。その力を発揮させてきたのは「システム」内における覇権国であるが、覇権国がその力を失うのである。そのため、「システム」は、その力を担うことのできる次期覇権国を探し始める。そこから1970年代以降の新たな「システム」がつくり出されていく。

ニクソン訪中から改革開放路線の開始される1978年、79年の間に、ベトナム戦争の終結の兆しが見えてきた1975年から78,79年にかけてベトナムとカンボジアが戦争状態にあったことを、とくに「システム」の新たな再編の動きを踏まえるとき、どのように理解したらいいのだろうか。それぞれの背後には、ソ連と中国が控えていて、中国の背後には米国が控えていたことも考慮しておく必要がある。

さらに、ベトナムとカンボジアの戦争状態と並行して、アジアにおいては開発独裁政権下の下での経済発展がみられていた。いわゆる「雁行的経済発展」として知られていた。こうした出来事を重ね合わせてみていくとき、私はやはり、{「B」→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイの形成と発展に向けての準備が、米中覇権連合の歩みの進展の下で、進められていたのではないのか、と考えるのである。


(最後に一言)


前回記事において、(最初に一言)では以下のように述べていた。すなわち、ーーーあるテレビ局の番組で、ロシアのウクライナ侵攻の可能性云々についての報道とそれを巡る解説を聞きながら、私は唖然とした次第。その理由は至極簡単だ。そこでアナウンサーが、「ロシアはどうしてウクライナに進攻しようとしているのか」、と問うていたからだ。それに対してのあるコメンテーターの解説に、また驚いた。かれいわく、うくらいながNATOに組み込まれたら、ロシアはウクライナという「緩衝地帯」を失い、すぐ横に敵対勢力が位置してしまうことから、ロシアの安全保障には深刻な問題となる云々。ーーー


それを今一度、確認した上で、今回記事において、私がとくにこだわったのは、手前味噌ながら、いま世界で起きていること、これから起こるであろう出来事を論じる際には、私の語る「システム」論で提示された1970年代以降から今日に続くB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉と結び付けて、論じ直してほしいということである。私のモデルを前提として、それと結び付けて、これから引き起こされるであろう世界的な出来事を捉え直すならば、おそらくそれほど的外れな議論とはならないことを、私は確信している。またまた、エラソーな物言いで、申し訳ないのだが。

ここまでの話を踏まえるとき、「現下のウクライナ危機」の原因を探求していくとき、そこには、すぐ上で引用した前回記事の(最初に一言)で紹介した話などでは、とても済まされない、数多くの歴史的出来事から構成される、はるかに大きなパノラマが展開していることに、改めて気がつくのではあるまいか。もとより、それが理解できるのは、私の語る「システム」論を手掛かりにしたとき、なのだが。

それを踏まえて、最後に一言だけ付け加えるならば、ロシアとNATO(米国EU)連合勢力の対立・対決構図の下で、世界情勢はその緊張の度を深めているのだが、私には、それ以上に、今後の動向として、中国対ロシアの対立・対決へと至る流れが不可避となるのではないかと、そちらの方が、もっと危惧しなければならない問題なのである。

それこそ、杞憂であってほしいのは、言うまでもないのだが。ウクライナにロシアがこだわる最大の理由として、私は、やはり次期覇権国としての中国の台頭を、その隣国に位置するロシアが一番恐れているからに他ならない、と考えているからである。何度も言うのだが、覇権システムの中で、自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦を介した「親分ー子分」関係の中で、私たちは生きているということを、絶えず冷静に見据えておく必要があるのだ。


**二つ目の記事
(2022,2,5)

(加筆・修正版)私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続)ー中東・アフリカ諸国に対する中国の支配・浸透力が20-21世紀転換期頃にかけて、強まっていく背景を再考するとき、またそれと軌を一にするかのように、同地域での米・ソ両国の支配・影響力が、著しく弱体化していくのを確認するとき


(最初に一言)

前回記事において、私は次のように述べていた。すなわち、ーーーそうした過程において、中国は世界の工場となり、世界の市場となり(改革開放路線の下で米国に代表される西側先進国からの外資導入の下で人件費の安い中国人労働者の手による安価な製造業製品を洪水のように世界中に輸出する中で、その主要な原料供給地であると同時に、中国製品の受け入れ地でもある中東やアフリカ諸国の経済発展は、中国の経済発展の下に組み込まれることにより、ますますソ連の、あるいは米国の中東やアフリカ諸国に対する支配力、影響力は低下すると同時に、ソ連(あるいは米国)自体の国力の低下を導くのである。ーーー


上のくだりで紹介している中国の中東・アフリカ諸国に対する支配・影響力が強まっていく背景について、今回記事では、もう少し詳しくみていきたい。行論の都合上、ここで私の「仮説」を紹介しておきたい。前回記事と重なるところもあるが、それを断ったうえで、ここに紹介しておく。


①「私の仮説」

<なぜ冷戦崩壊の直後にソ連邦は解体したのか。ヨーロッパにおいて、EUに向けての動きが1992年のマーストリヒト条約の締結により固まったが、これは冷戦崩壊とやはり関係があるのではないか。さらにすぐ後の付言した出来事とも関係があるのではないか。と同時に1970年代以降の「システム」の再編、変容の歩みの中で、EUにつながる流れが導かれたのではないだろうか。Bの中国の経済発展を介して中国を世界の工場へと導くために、その中国製品の輸入先としてのヨーロッパ市場と、かつての東側諸国を含む地域から中国に向けての原料や天然資源の輸出をとおしてAの経済発展とBの経済発展の関係をとおして、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイの形成と発展の歩みをさらに強固にするために、EUが発足した(EUを発足させる必要性を「システム」は理解した)とみることも可能ではないか。(付言すれば、米国も覇権国として全世界を統合する力を急速に失うのはなぜか。確かにアフガニスタンやイラクに対する軍事介入はその圧倒的軍事力行使において「ユニラテラリズム」の表れとして多くの論者により位置付け理解されたのだが、裏返せば、そこまでしないと、米国の言うことを聞かせることができにくくなった、ということではなかったろうか。)アフリカにおいて、なぜ冷戦崩壊後、部族関闘争や内戦が激化していくのか。なぜ冷戦崩壊後、中東おいて戦争がはじめられたのか。>?これら三つの「なぜ」の問題(拙著『民主化の先進国がたどる経済衰退』の序章の「三つの何故」参照)を「システム」の再編と変容といった観点から読み解いていきたい。同時に、それらの問題に関連して、今日の様々な政治的出来事(イギリスのEuからの離脱、Euにおける「右傾化」の加速、アメリカにおける「内向き」傾向とトランプ大統領の誕生、日本のロシアへの接近と、アジア諸国での対中国封じ込め外交の顕在化等々)に関しても同じく「システム」の再編と変容といった観点から接近していきたい。

このようにみてくるとき、様々な出来事が、あたかも一本の鎖の輪を構成するかのように位置づけ理解されるのだが、その源は、まさにニクソン訪中と改革開放路線を推し進める米中覇権連合の形成と発展に端を発している。


②「私の仮説」

何故、「アラブの春」は、2010年代に、もっと広げて言えば、2000年から2010年前後に、起きたのか。この問題は、コンゴ民主共和国の「悲劇」に象徴されるアフリカの戦争が、やはり同じ時期に起こっていたことと、何か関係があるのではないか。

この理由とその説明に関しては、は。ネット検索を介して見ても、いくつか出てくるある。(尚子先生教えて下さい)等等。しかし、それらの説明は、「比較政治学」の観点からの説明ではない。たとえば、「アラブの春」を民主化や民主主義の発展の観点から捉え直すとき、それでは、どのような理由説明が行われてきたのだろうか。私の見るところでは、これらの政治学からの解答も十分ではない。と言うのも、民主化や民主主義の発展に関する、「静態的」研究はあっても、「動態的研究」はないのである。その関連で言えば、「何故いまロシアはシリア空爆を行ったのか」に関する国際政治学や比較政治学からの〈学〉的説明、すなわち、民主化や民主主義の発展との関係・関連からの説明は、聞かれない。こうした点を踏まえて、私は私の民主化、民主主義の発展に関するモデル、すなわち、私の語る「システム」論で提示されている構造モデルと時系列モデルを使って、いろいろな問題に論究していきたい。


ところで、私の語る「システム」論で紹介されている「普遍的価値」の実現の歩みとして位置づけ理解される「普遍主義を構成する「経済発展」(「衣食足りて」の営為)と「民主主義の発展」(「礼節を知る」の営為)の関係(史)は、1970年代以前と70年代以降において、その構造転換・変容をみることに注意してほしい。

この変容なり転換の関係が理解できない限り、たとえば何故、1970年代、80年代あるいは1990年代の初期ではなくて、(何故)1990年代の中頃以降に「コンゴ民主共和国」に見るアフリカの大戦争、悲劇が生起したのかが理解できない、と私は見ている。*〈参照、〈第8回 世界最大のコンゴ紛争 私たちとのつながり〉〈コンゴ民主共和国 無視され続ける世界最大の紛争〉、大阪大学グローバルコラボレーションセンター、ヴァ―ジル・ホ―キンス〉


私は何故、それが1990年代中頃以降において生起したかを、私のモデルのセカイの関係史で描く関係が、その関係における緊張と抑圧の強度が、セカイの関係の歩みが70年代、80年代、そして90年代と時を経るごとに、「順調に」形成、発展させたいと願う覇権システムの、そしてまた「システム」の維持と発展の歩みによって、深化してきたこと、換言すれば、それだけ1970年代以降においてその形成と発展とその維持と安定が望まれる「システム」それ自体の関係史が、より強固になってきた、と私はみている。

「改革・開放」以後のBの中国に対する、Aの先進国の、特に米国の直接投資の増大による中国国内における爆発的な工業化とそれに伴う中国の世界の工場、世界の経済市場への発展は、中国国内における工業製品の諸原料に対する需要を高めることとなる。その供給先として注目されたのが中東やアフリカ諸国であった。同時にまた、それらの地域は中国製品の受け皿としても期待されたのは言うまでもない。

それゆえ、そのことは中東やアフリカ諸国における紛争を惹起させることとなった。たとえば、中国の台頭を面白く思わない勢力や、中国への天然・鉱物資源を供給することで利益を独占しようと考える経済利害は、中東やアフリカにおける自らの仲間たちと呼応しながら、敵対勢力を排除しようと企図とするであろうし、事実そのように行動したのである。こうした資源の争奪戦の過程で、中東やアフリカ諸国において、多くの戦争が勃発することとなった。そうした繰り返される戦争を経て、ますます1970年代以降の世界・セカイの関係史のさらなる発展とその安定が進展していくこととなる。

こうした観点から、中東とアフリカの紛争を回顧するとき、1970年代以前の紛争・戦争は、{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイを形成、発展させるためのものである(あった)ということ、同時に、1970年代以降から今日に続く紛争・戦争は、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイを形成、発展させるために引き起こされたものである(あった)ことが理解されるのである。

ところで、1970年代以降から今日に至るB、C、Aから構成される「システム」の形成と発展は、さらに以下のように、(1)から(12)の時期に、それぞれ区分されると同時に、その時期ごとにおいて、B、C、Aの各々の地域における世界史的出来事が導かれ、それらがやがては全期間を通して、B、C、Aから構成される「システム」の形成と発展を支持・強化する歴史的な一つの「統合・統一的」出来事として、位置づけ理解されるのである。

そうした一つの「統合・統一的」出来事を描き出すことが私の当面の課題となるのだが、ここでは、ごくごく簡単な(1)から(12)の時期に区分されたB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉に関するモデルの提示だけにとどめておきたい。

(1)1970年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(2)1970年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(3)1980年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(4)1980年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(5)1990年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(6)1990年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(7)1990年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(8)2000年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(9)2000年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(10)2000年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(11)2010年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(12)2015年から現在に至る頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係


以上、ここまで(1)から(12)にかけてのB、C、Aの「システム」の形成と発展に関するモデルを提示したのだが、ここで私が読者に伝えたいことは、こうした流れの中で、1970年代以降から今日に至るまでに、B、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉は、紆余曲折を経ながらも、それにもかかわらず、着実にその確固たる基盤を築いてきたということである。

それに関して付言すれば、1970年代以降から今日に至るまで、Bの中国とCのアフリカ諸国と、Aのアメリカと日本における「経済発展」と「民主主義の発展」の「段階」は、私のもう一つの通時的モデルが示すように、BとCにおいてはその「高度化」に向けての、Aにおいてはその「低度化」に向けての歩みが「進化(深化)」していることを、換言すれば、BとCとAの間における「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係がますます、その紐帯を強めていることを銘記しておかなければならない。

こうした点を鑑みるとき、たとえばCのアフリカ諸国が置かれている深刻な状態、状況を知ることは確かに知らないことよりも大切ではあるが、もし物事を正確に知ろうとするのであれば、私はやはり私のモデルで描くあのセカイの関係史の全体像を理解しながら、その枠の中でCのアフリカ諸国の現状を知るべきではないかと考えるのである。

これらを踏まえて、さらに重ねて付言すれば、「中東・アフリカの戦争」を分析する際に重要な視点は、B、C、Aの相互の関係を前提とした枠組みを元に分析することである。1970年代以降、現在にかけてこの関係が相互に深まり、強化されてきたが、こうした関係の深化の中で、中東やアフリカにおける紛争が導かれてきたとの「仮説」を、前提としている。なお、今回記事では、上述した(1)から(12)のモデルとの関連も含め、これらに関する具体的出来事の紹介ができていないことを、ここで断っておきたい。


(最後に一言)

前回記事も、また今回記事も、すでにこのブログ記事において述べていた内容であるのだが、ここにきて、もう少しその語り口というか語り方を、少し変えながら、これ、までの拙論を整理しなおしていることを、ここでも断っておきたい。

*なお、行論の都合上、〈付記〉以下を削除したことを断っておきたい。
**この記事の(1)から(12)に呼応する具体的例として、簡単な紹介を以下に記しているので、参照されたい。

①この時期はニクソン訪中、その中国はなお、文化大革命の最終局面。米国は、ベトナム戦争の最終局面。中東では、イスラエルとアラブの第4次中東戦争。イラクとイランの対立から、ホメイニ師の下でのイラク・イランの友好関係と米国との対立構図。イランの背後にソ連の存在。アフリカでは、植民地独立後の米・ソによる新たな支配

②この時期は改革開放期?この時期から始まる中国の世界の工場に向かう動きとそれを支えたAの先進国からの中国への外資流入とそれを基にした安い人件費の下で生産された安価な中国製造業品の世界中への輸出攻勢は、その原料を提供するCの中東やアフリカとの関係をますます深化させていくと同時に、Aの地域に対する大きな影響力を増していく。その象徴として先進国における雇用の喪失と中間層の解体、失業、貧困問題の顕在化による格差問題、そうした格差に伴う国民の不満と移民労働者への反感と彼らの不満を吸収しながら躍進する「極右」政党とそこで展開される「ポピュリズム」4の動き等々。それらの動きと関連する形で、Cの中東諸国やアフリカ諸国においてもBの中国の台頭とその影響力の下に置かれていくAの先進国との関係の下で、内紛、内戦や地域間での戦争といった争いが繰り返されていく。CやAにおけるこれらの状況や状態は、70年代末以降のシステムの発展の中で、相互に関係を深化させていく。?BとCの経済発展と民主主義の発展の関係の歩みの深化がAの経済発展と民主主義の発展の関係に影響を与えると同時に、Aの関係がさらにBとCの関係に影響を与える。そしてまた―――繰り返されていく。こうした歩みの中で1970年代以降にその改編と変容の歩みを見た新たなるシステムの確固とした仕組みがつくり出されていくのである。

1978年 - イラン革命
アメリカがイランへの影響力を失う。

1979年 - ソ連のアフガニスタン侵攻

③この時期はプラザ合意の時期。中国の経済発展はさらに目覚ましく、そのことが中東やアフリカ諸国に対する中国の支配。影響力を強めると同時に、それに伴い、従来の米・ソ両国によるこれら地域への支配。浸透力を弱体化させていく。米国とソ連の冷戦関係が最終局面を迎える。ソ連邦の解体へと向かう歩みが顕在化。

④この時期は冷戦の崩壊期。ソ連の解体とそれに伴いロシアの誕生。ウクライナのロシアからの分離。Bグループ内のロシアの国力の低下と、中国の国力の増強・増大する時期。中国の中東・アフリカに対する支配・浸透力はさらに強まっていく。その関係から、これら地域における米ソの支配・影響力はさらに弱められていく。

1989年にAPEC発足。

⑤この時期は冷戦の崩壊期。1991年、ソ連の解体とそれに伴いロシアの誕生。ウクライナのロシアからの分離。Bグループ内のロシアの国力の低下と、中国の国力の増強・増大する時期。

第1次湾岸戦争の勃発。米国によるサダム・フセイン指導のイラクに対する空爆開始と、フセイン政権の打倒と新生イラク国家の建設。

ヒューストン・サミット、新たな国際秩序の形成に向けての動きが本格化していく。

ヨーロッパではマーストリヒト条約の締結とその発効によりEUの誕生。

中国の中東・アフリカに対する支配・浸透力はさらに強まっていく。その関係から、これら地域における米ソの支配・影響力はさらに弱められていく。

⑥1995年、WTOの発足。

⑦1997年、イギリスから中国へ香港返還。
1999年、ポルトガルから中国へマカオ返還。

⑨2006年にTPP発足。

⑪2013年、習近平により壮大かつ巨大な経済圏建設に向けての「一対一路」構想が打ち出される。以後、今日に至るまでその歩みは継続中。

⑫2015年、中国主導によるアジアインフラ投資銀行の発足。日本もそれを支援する動き。
2021年、中国のTPPへの加入申請の表明。


***三つ目の記事
(2022,2,20)

B、C、Aから構成される「金の成る木」としての「システム」が、その高度化実現のために、「米・中覇権連合」を使って用意周到に練り上げられた戦争プランとして捉え直すときー私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続・続)


あまり面白くない話を述べるのは気の滅入ることだが、ロシアとウクライナの一触即発的状況とすでに戦争状態と化している両国関係を、私の語る「システム」論から捉え直すとき、それはB、C、Aから構成される「システム」の高度化を実現するために、米・中覇権連合が中心となって、EU諸国を巻き込む形で推進された戦争計画の一環として、私は理解している。

その狙いは、あくまでも中国主導の「一帯一路」構想の実現のためである。今回のウクライナ危機によって、ロシアやEU諸国の中国への依存度はますます高くなることが予想されるのではあるまいか。その関連からいうと、中東やアフリカ諸国の戦闘は、中国の一帯一路構想の実現と結びつけて考えるとき、わかりやすくなるのではあるまいか。

いずれにしても、「システム」は、米・中覇権連合を使いながら、紆余曲折はあれども、着々とその構想実現を目指していることは確かである、と私はみている。そのために、哀れなのは、ロシアやウクライナ、そしてEU諸国や中東、アフリカ諸国に暮らす名もなき貧しい人々である。ただでさえ、コロナ禍で苦しんでいるときに、そこにさらに追い打ちをかけるように、「金の成る木」としての「システム」の執念は凄まじい限りである。

勿論、これまで何度も指摘してきたように、誤解のないように付言しておくと、そうした私の語る「システム」にそこまでの力を与えているその張本人は、名もなき貧しい私たち「システム人」の存在だということなのだ。このことだけは、まず何よりも、自覚・自戒しておく必要があり、それは最低限の私たちの「道徳」である、と私は強調しておきたい。

その自覚・自戒のない者が、いくら世界の大富豪の金もうけの仕方や今日の格差社会を非難・批判したところで、それは所詮は、お里が知れているとしか言いようがない。こんな物言いを、本当は私はしたくはないのだが、あまりにも他人事感覚で語る人が多くなっていることを鑑みれば、致し方なかろう。当然ながら、日本に暮らす私たちにとっても、現下のウクライナ危機は他人事では、到底済まされなくなるだろう。

申し訳ないのだが、もうこの辺でやめておきたい。中途半端な記事の展開で終わらせてもらうのだが、それでも私の今回記事で伝えたかったことは、その少しは述べられたのではないかと思っている。


(最後に一言)

 今回記事で以前に投稿した三つのブログ記事を再度ここに貼り付けたのは、今回記事のタイトルにある中国とサウジアラビアに代表される中東湾岸のアラブ諸国との関係を、私の語る「システム」論の観点から是非とも位置づけ理解し直してほしいと願うからである。ここに、中国とイラン、さらにはアフリカ諸国との関係強化の動きを含めてみるとき、今の世界が{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉を顕在化させているのに気が付くのではあるまいか。

 そんな時に、このBの先頭をひた走る次期覇権国の親分である中国を仮想敵国として位置づけ、日本の安全保障のための防衛費予算の増額云々の戯けた話に興じている私たちの〈政治〉はもはや愚かどころの問題では片づけられない、その意味ではまさにつける薬はないとしか言いようがないのではあるまいか。

 久しぶりに記事を書いた、貼り付けたのだが、何か虚しさしか残らない。これもまたいつものことだが、読者には申し訳ないとしか言いようがない。とにかく、今回は私自身による私の安否確認のための記事として見てほしい。まだ何とか生きているので、ご安心を。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする