(閑話)「統一教会」を巡るメディア報道「反社会的カルト勢力から自民党は決別宣言し、教会の存続を許さないとの断固とした姿勢を示すべき」とのことだが、それでは私たち国民も〈「反・社会的戦争屋利害勢力〉と
(閑話)「統一教会」を巡るメディア報道「反社会的カルト勢力から自民党は決別宣言し、教会の存続を許さないとの断固とした姿勢を示すべき」とのことだが、それでは私たち国民も「反・社会的戦争屋勢力と決別し、その存続を許さないとの断固とした姿勢を示すべき」、とメディア報道は続くのだろうか。
(最初に一言)
「不思議と言えば不思議だが、同時にまた、何も不思議ではなく、それは世の常としてのの出来事に過ぎない」とも言えようか。安倍元首相がこの世から、そして政界から、自民党からいなくなったと同時に、これまで〈「反・社会的」勢力〉の存在とその活動を看過してきた感のあるメディアが、ここぞとばかりに騒ぎだしているのだが、それは冒頭の「ーーー」となる。いずれにしても、そこには力(暴力)に対する「忖度」が働いている。決して、報道に携わる者たちの世の中を少しでも正したいとの心の叫びから導かれた姿勢の変化によるものではない。
今のメディアの統一教会を巡る報道姿勢に見られる顕著な変化は、私の語る「システム」が提供する「見世物」の一つであることは間違いなかろうが、それゆえ、結局のところ、「本丸」にまで切り込むことは到底できない相談だ。
とにかく、最近の報道では、「反社会的」勢力、「反社会的カルト」勢力といった「レッテル」が統一教会に貼られている。そして信者とその家族が、強引な霊感商法や教会への勧誘等々を介して、家族崩壊に直面した事例が、今また国民の知るところとなっている。私自身も若い頃に、連日のテレビ報道で紹介されていた、高額商品をあの手この手のやり方で購入させられた信者たちの教団を非難したり告発する生々しい声を聞いたものだった。
その頃も、教会による上で紹介したような反・社会的商法や勧誘のやり口が問題視されていたのだが、いつしか、テレビのブラウン管からは、教会を取り上げる番組はなくなっていた。私自身は、正直なところ、「またか、何度こんな同じ話を聞かせるのか」と思っていたくらいに、ある時点からは辟易していたのを、思い出す。
記憶は定かではないのだが、その当時の報道は、統一教会と岸信介や福田赳夫、自民党、清和会の関係については、ほとんどなかった。それゆえ、報道が許されていたのだろうが、逆に言えば、教会と信者たちの関係にだけ目を向けさせるように、当時の報道は仕向けられていたということだ。
そして、それが今は、大々的に、昔は許されなかった岸や福田、そして安倍、さらにはその他の自民党議員と教会の関係までもが、連日伝えられるようになった。そこには、以前のように、今回もまた、国民に知らせたくない、知らされないもう一つ、二つの話があるのかもしれない。それを不問にする代わりとして、自民党関係者と教団の癒着関係についての報道が許されている、と私はみている。
とは言え、やはり何かトカゲのしっぽ霧的な報道であるのは間違いない。もっとも、読者の中には、それでも今まで知らされなかった国民が、やっと知ることができるようになったのだから、それはそれでいいのではないかと思われる者もいるのではあるまいか。だが、国民の中には、「もうそんなことはとっくに知っている、当たり前のことを今さら報道するなよ」、と腹立たしい思いをしている者もいるのも確かであろう。
こうした点を踏まえて、私が警戒するのは〈「反」社会的勢力〉の「レッテル」を権力者が、自らの政治支配のその時々の都合・不都合に合わせて、拡大解釈してしまうことである。反・社会的著作であるとか、文書、パンフレット等々のレッテル貼りである。私に言わせれば、力というか権力というか暴力の存在自体が、そもそも何某かの〈「反」・社会的〉性質を帯びていると同時に、その力(暴力)の行使によって、共同体の権力を独占することにより、その「反」なるものを、自らの権力に対立・敵対する勢力に、押し付けようとするのだ。。
逆に言えば、その権力を独占した勢力に協力を惜しまない連中に対しては、たとえその存在自体が社会の「道徳」・「慣行・慣習」・「常識」といったものから極めて逸脱するものであっても、その連中の存在は「反」とはみなされないで、放置されるのである。歴史を見ても、権力を独占する勢力は、自らの都合に合わせて、反社会的というレッテル貼りをしてきた。
話がまたまたややこしくなってきたが、今回記事のタイトルを見てほしい。強引な詐欺商法で、信者からお金を巻き上げて、その家族をも巻き込んで、彼らを不幸のどん底にまで追い込んでしまい、挙句はその命まで奪い取るなどは、決して許されない話だ。反社会的行為であると批判・非難されてもおかしくはない。
ところが、その「反」・社会的勢力として統一教会を告発する当の「社会」それ自体も、その社会の中に多数の〈「反」社会的勢力〉を抱えているのではあるまいか。換言すれば、反・社会的勢力を非難・批判する社会それ自体を、「反」ではないと「測定」する「物差し」は、一切示されてはいないのではあるまいか。
便宜上、話を分かりやすくするために、ここでは、以下において社会を国家に置き換えて語ることにしたい。国家という存在を、私たちは何ら疑うことをしない。生まれた時にはすでにそれは存在していて、私たちは国民として、その構成んであることから、国家とはこんなものだと言わんばかりに、普段の生活においては真剣にその存在について考えようともしないだろう。
だが、国家も告発されることはしばしばであるのは、公害裁判でも知ることであろう。国家が裁かれて、その賠償を支払う云々の話もよく聞くことだ。それは、国家が、ある時点において、反・社会的性格を帯びていたということなのだろうか。たとえば、チッソ・水俣病公害訴訟において、国家が賠償支払いの責を負うとき、それは反社会的行為を国家が採ったということであろうか。その場合、どうして国家はそのような反社会的とされる行為を、とくに1950,60、70年代に集中的に、選択したのであろうか。
その間、水俣病の患者として苦しむ人たちを、国家が率先して救うことをしないばかりか、あろうことか水俣病患者をさらに生み出すチッソ水俣工場の反社会性を、もみ消すことに手を貸して、その企業と一蓮托生的な反社会的行為を、国家が率先して指導・監督してきたのだ。そこには当時の政・官・財・学・マスコミをはじめとした応援団が存在していた。そして、その患者とその支援者による長い公害訴訟の戦いの末に、国家とチッソ水俣工場の〈反社会的〉公害犯罪は、裁かれることとなったのである。
ここでの国家が帯びているその反社会的性格は、上述した統一教会のそれと、果たして同じものなのだろうか。それを確認するためにも、ここで私たちはいま一度統一教会の抱える問題を、霊感商法や強引な信者勧誘の問題から少し切り離すことを余儀なくされる。その統一教会と密接な関係にあった国際勝共連合に目を向ける必要が出てくるのである。
そのように少し立ち位置を変えることによって、いわゆる、「冷戦」という、私の語る「システム」の提供する「見世物」としての出来事と結び付けて捉える視点を得ることができる。そこから、ロシア革命、ソ連邦の成立、スターリンの独裁体制、そして第2次世界大戦時の冷戦に至る米ソ関係、あの戦争終結後の朝鮮戦争、それを契機とした南北朝鮮の分断、中華人民共和国の成立、それらの流れを受けてのアジアにおける反共産主義に対する日本の防波堤としての役割の重要性、それからベトナム戦争へと至る流れを、私の語る「金の成る木」としての「システム」({[A]→(×)[B]→×[C]})の高度化の歩みと、覇権国の米国の世界戦略と結び付けて捉え直すとき、さらに以下のような出来事が関連していることに気が付くはずである。
すなわち、韓国における朴政権の下での開発独裁体制の誕生と、韓国CIAの結成と、その朴政権に反発・抗議する社会的勢力への弾圧、それとの関連での日本における岸自民党政権下での安保改定反対勢力に対する弾圧、日本国内における国際勝共連合発足とが、一連の出来事として位置づけ理解されるのではあるまいか。
私の語る「システム」の形成と発展の高度化の歩みから捉え直した覇権国米国の世界戦略の一環として描かれる上述した出来事との関連から見た日本におけるチッソ水俣工場の果たした役割と、日本の統一教会・国際勝共連合と自民党政権の担った反共的役割、そしてその犠牲者と私たち国民との関係を、再度捉え直してみたならば、先の〈「反」・社会的〉云々なるものの「反」社会の「反と、「反」として位置付け理解されなかった「社会」の中の「反」なるものとその両者の関係は、私たちがこれまで見向きもしないで済ましていた私たち社会と私たち自身の存在における「犯罪」を、すなわち反社会的性格をあぶり出してくれるのではあるまいか。
私たちの社会というか国家に見いだされる差別と排除の関係と、それを前提としてつくり出されてきた「システム」の〈「反」社会的〉なるものと、先ずは私たち自身が向き合わない限りは、統一教会の、さらには国際勝共連合の〈「反」社会的勢力〉を告発するまでには至らないのは明らかではあるまいか。そこには、私たち自身の中に組み込まれた〈「反」社会的〉性格と、それにもかかわらず、その私たちが弾劾・告発する際に依拠している〈「反」社会的(勢力)〉云々の「社会」との密接不可分な関係が存在している、と私はみているのだ。
私の語る「システム」を担う「システム人」としての私たちも、相当に勝手な存在なのだ。権力者と同様に、自分たちの都合に合わせて、ある時には「反」をつけたかと思えば、またある時にはそれを恣意的に外しているのだ。勿論、私自身も例外ではない。その意味では、私が批判している「ダマスゴミ」と同じくらいに、私もたちが悪いのだ。私もいつも「忖度」して生きている。
(最後に一言)
それでは、私は一体、誰に対して忖度しているのか、と問われれば、それは私の関わるすべての人と答えるであろう。これから、どこかの介護施設でお世話になるかもしれないし、その前に家族の厄介になるかもしれない。私は視覚障碍者としての私自身の存在から、絶えず誰かのお世話にならざるを得ない。
その際、思い出すのだ。私は自分の母親に対して、最後まで優しく接したであろうか、と。歩けない母を抱きかかえて、便座に座らせようとした瞬間に、優しくなれないで、母をぞんざいに扱ったことが何度かあったのを、今でもはっきりと思い出す。今度は、私がそうなる番だ。
必ずそうなる。それを思えば、忖度するのは当然のことだ。私の身の安全保障にかかわる最重要なことである。どれほど忖度しようが、相手にはなかなか私の思いは通じないだろう。目と目のアイ・コンタクトが、私にはできないから、それはなおさら、大変だ。そこで、やはり最後はあの石原Jrの言う「最後はやはり金目でしょう」となるのかもしれないが、そのお金が見えないから、これもまたダメである。
もうやめておく。だが、私がおそらく言いたかったのは、私にとって、〈「反」社会的〉勢力とは、〈(私なる私的存在)に対する「反対勢力」〉だったということである。誤解を恐れないで言うならば、それは私に忖度しない、私という私的存在を敬わない、配慮しない、黙って言うとおりに従わない等々の勢力であるということなのだ。こんな私みたいな〈「私」優先主義〉の人間が、もし国民の大多数であるとすれば、その社会は、そして国家は、それこそ〈「私」(優先主義)勢力〉の中の最大勢力の利害を代弁するものとなるに違いない。
そうした国家が説く「〈「反」社会的」(勢力)〉云々批判は、その国家自身が、さらには私の語る「システム」それ自体が体現している〈「私的(利害)」(優先主義)勢力〉に対しては、決して向けられない批判である、ということだけは確かではあるまいか。ロシアによるウクライナ侵攻で、世界的な戦争屋利害勢力の関係のネット・ワークの下で、それこそ数限りのない人命が犠牲となっている現状を目の当たりにして、私たちはその出来事を〈「反」社会的勢力〉の仕業であると、声高に弾劾・告発してもよさそうだが、メディアは、その加担者である企業名を、具体的に視聴者の前に暴露したりは決してしない。
なぜなら、メディアを支配しているのは、そうした世界的な戦争屋利害勢力であり、彼らがそのスポンサーであるからだ。そうした勢力の関係のネット・ワークが、私たちの社会や国家の隅々に至るまで張り巡らされていると同時に、私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係のネット。ワークも、前者の戦争屋利害勢力のネット・ワークと相互に重複するような関係を成していることを踏まえるとき、私たちの〈「反」社会的勢力〉の選別作業は、示威的であることを免れないのは明白である。
今回記事も、これまでの拙著や拙論の域を出る話ではないのだが、読者のご寛恕のほどをお願いする次第。
(閑話休題)
それでは、また前回記事の続きを述べるとしたいのだが、今回はこの辺で失礼。