日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めて「歴史叙述の〈神話〉」について考えるときーたとえば、自由主義、民主主義、民族主義、「公」と「私」等々に関する〈神話〉を事例として見た場合

2022-05-30 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「歴史叙述の〈神話〉」について考えるときーたとえば、自由主義、民主主義、民族主義、「公」と「私」等々に関する〈神話〉を事例として見た場合


(最初に一言)の前に、①理論的というか頭の中で考えられることと、②現実という「制約」を前提として生きている・生き抜くために、できること・できないことの葛藤というかもやもやによって、どうにも先へと進めないでいる「私」と、何のわだかまりも悩みも感じさせないで先へ先へと進む「公」として位置づけ理解されてきた政府の関係を、私というちっぽけな存在から改めて捉え直してみたい。

そんな私と、富と力を独占している巨大な「公」的利害関係である国家・政府との関係を見直すとき、私には以下のように位置づけ理解される。すなわち、私が勝手に思い描いてきた私と公の関係などは、本来どこにもなかったのではあるまいか。つまり、そこには絶えず私と公の関係ではなく、私と私の関係しか存在していないし、存在していなかったのだ、と私はみている。

それゆえ、私は問い直す必要がある。何故なのだろうか。ずっと私と私の関係でしかなかった私と国家・政府の関係を、どうして私は私と公の関係として見誤ってきたのかに関して、考えてみなければならないだろう。先ずはこの点を踏まえながら、その前に先の①と②の関係について述べておきたい。

最近のメディアの報道は、とくにロシアのウクライナ侵攻後は、あたかも私にある種の「踏み絵」を迫っているかのように思えて仕方がない。それはお前は西側の、民主主義陣営に属しているのか、それとも、ロシアの専制主義的独裁陣営に属しているのかという情報提供ばかりなのだ。二つの選択肢しか存在していなくて、しかも私たちは西側の民主主義陣営に当然のように属しているとの報道ばかりなのだ。

考えられるあと一つか二つの選択肢があってもよさそうに思えるのに、そんなものは何もないのだ。私から見れば、少なくとも、①に関して言えば、私の語る「システム」論で論及してきたように、専制主義のロシアも、民主主義を標榜する反ロシア陣営も、「同じ穴の狢」であり、そのおかしさというか問題の多さにおいては共通していると同時に、どちらの側にも与することはできないのだ。

すなわち、ロシアの批判と同様に、米国や英国の政治指導の問題点を批判しながら、それに替わる何かを探していく必要があるのだが、そんなことなど許さないぞとのメディア報道である。私は①に関して言えば、私の語る「システム」論の立場から、いずれの陣営にも与したくはないのである。すなわち、私の語る「システム」の中では、できれば生きるのは遠慮したいのである。

だが、②の観点に立てば、話はすぐさま違ってくる。何しろ覇権システムの中で私は生きている。「親分ー子分」関係に逆らっては生きられないから、西側陣営の親分の米国が子分の日本に対して、命令・支持することに逆らうのはとても困難なこととなる。それゆえ、日本のメディアもその流れに従うこととなる。簡単に言えば、親分の指示や命令を子分に伝える仕事でしかない。その意味ではダマスゴミとなるのは仕方がなく、そんな中でも、ひたすら「何故」を問い続けようとしている職人気質のメディア関係者もいるのは確かだ。勿論、こうした頭の下がる人たちは、少数ながらも社会の隅の方で、しぶとく私たちを見つめている。

それに関連?して言えば、つい最近のことだが、親分筋から重要な指令が出されたばかりである。それは、MSNで配信された記事からうかがい知れる。その記事とは、〈ゼレンスキー大統領が激怒! キッシンジャー氏の「領土割譲案」に「ロシアの利益を考慮しよう、という人が必ずいる」2022/05/27 11:31〉であるが、「金の成る木」としての「システム」からの意向に沿う形で、キッシンジャー氏による停戦へ向けての落としどころが提案されている。

おそらくは、この方向で「システム」は今回のロシアと英米の戦争を停戦・休戦にもちこもうとしている。「金の成る木」としての「システム」は戦争をその都度必要としているが、それゆえ、その戦争の停戦、休戦に向けての落としどころを計算している。次の戦争への動きも計算に入れたシナリオを用意している。キッシンジャー氏による〈ウクライナに南部クリミア半島の返還を諦めるなどの「融和策」を提案〉は、まさにそうした計算に裏打ちされたものとして理解される。

(「システム」の推奨する「平和」とは、まさにこの種の戦争を介在させた平和であることを、私たちはしっかり頭に叩き込んでおかねばならない。敗戦後の廃墟の中で、平和な社会を実現できたと喜んでいるすぐ隣の国では、朝鮮半島を二分した朝鮮戦争が(日本の半島侵略を終焉させた第二次世界大戦の終結直後にも用意周到に準備され、それが開始されるや、日本はその戦争特需に与りながら、日本の復興と平和に酔いしれることになるのだから、「システム」からすれば、日本と日本人は次の「戦争(平和)」のありがたいお得意様でしかないはずだ。)

こうした氏の提案に対して、ゼレンスキー氏は〈ウクライナ人を考慮していないとし、英仏のナチス・ドイツへの融和姿勢が第二次大戦を招いた1938年のミュンヘン会談を引き合いに出し〉ながら、〈ロシアを侵攻前の地点にまで押し戻せば「勝利」とする一方、クリミア半島や親露派武装勢力が支配する東部2州の一部地域を取り戻すのは「次の段階」とし、交渉で実現したいと強調している。〉とのことだが、この操り人形でしかない彼には、まったく現実が見えていないのではあるまいか。否、この発言も脚本通りのそれかもしれないが。

ミュンヘン会談での融和政策は、「金の成る木」の「システム」からすれば当然のことであり、その後の戦争の拡大への道は、まさにそれを証明したところである。読者の誤解を避けるために一言付言しておきたい。私は戦争をできれば避けたいし、そのための努力を決して惜しむものではない。

だが、世間一般の見方でもって、戦争は決して避けられないし、それどころかその戦争の停戦に向けてのシナリオさえ描けなくなるのではあるまいか。先のキッシンジャー氏やゼレンスキー氏の発言は上で紹介したMSN配信の記事からであるが、その記事の中に、以下の発言が続く。すなわち、〈福井県立大学の島田洋一教授は「キッシンジャー氏の発言は人権や侵略的な体質などモラルを度外視し、邪悪な勢力とも共存して、現状維持的な安定を図る『勢力均衡』の発想に立つものだ。中国を含め、事実上の占拠などで既成事実を積み重ねる侵略者を許すことにつながりかねない」と指摘した。〉とある。

私はこの種の発言には、正直なところ、もううんざりなのだ。覇権システムの中で生きているという現実、戦争を親分同士が「金の成る木」としての「システム」のために、その意向を受けて繰り返し「主催」していることに目を向けることなく、先の発言に見るモラルとか邪悪な勢力とも共存ーーー勢力均衡云々の話にすり替えてしまっている。

「宗教倫理」の話ではなく「責任倫理」の話をする必要がある。私の語る「システム」ほど邪悪なシステムは存在しない。何しろ覇権システムをその下位システムとして、それを基にして世界資本主義システム、世界民主主義システムがつくり出されてきたのだから。その「源」をたどっていくとき、それは結局のところ、ある地域の中の最も力のある私的な寡頭勢力(集団)であることに気が付くのではあるまいか。

そうした勢力がいつしか親分となり、その親分に都合のいいような「衣食足りて礼節を知る」営為の関係とそのネットワークがつくられていくのだ。その「衣食足りて」の営為の関係とネットワークから世界資本主義システムが、その「礼節を知る」営為の関係とそのネットワークから世界民主主義システムがそれぞれつくられていく。

そこで重要なことは、その私的寡頭勢力は、自らを他の子分の私に対しての関係において、「公」として位置づけ理解されるように、何某かの「詐術」を行いながら、同時にそれを合法化・正当化することに成功したのである。少し前の安倍政権下でのやりたい放題をまず念頭において想像してみてほしい。要するに、権力を持てば、生殺与奪の権を持つことになり、何でも好きなことができるのだ。

それこそ白を黒にも赤にでもできるし、私を公に、また公を私にもできるのだ。世界における公の誕生は、国際社会において主権国家がその中心的担い手(主役)となると決められた時ではなかろうか。すなわち私的な存在であった絶対君主が、世界の中で公の存在となると同時に、それによって、それまでの私的な絶対王政の存在が、名実ともに公的な存在として認知されるようになった、と私はみるのである。

勿論、この説明の仕方はおかしいかもしれない。というのも、地域の中での最大の権力者は、私の存在をいつも公のそれにしてしまえるからに他ならない。私がそれを踏まえてこだわるのは、そんな地域的な公的存在を世界の公にした歴史的事件は何であったかについて、知りたいのだ。そうした勢力が、やがて大航海時代から以降、世界を席巻しながら「親分ー子分」関係を世界の隅々に張り巡らせて、その歩みの一環として日本の開国と至ったからである。

そこで、今一度問い直したいのは、日本を開国へと導いたのは、公としての勢力だったのか、私的勢力だったのかということだ。その際の日本を構成したのは薩摩藩・長州藩の私的勢力であったのか。日本という国家が誕生して、その日本は名実ともに公的存在となったとしても、その公を構成していたのは、どのような私的勢力であったのか。

開国から明治維新にかけての日本と欧米列強の関係を見るとき、日本の私的寡頭勢力と英国やフランス、そして米国のロスチャイルド財閥との関係にどうしても注目せざるを得なくなるのだが、そもそも明治日本国家という公的存在の中で、ロスチャイルド財閥という私的勢力はどれほどの割合を占めていたのであろうか。

こうした一連の問いかけをするのは、今後の議論を念頭に置いてのことであるが、少しややこしくなってきたので、まあ、今回は、もうこの辺にして、先へと進みたい。その前に少しだけここで問題提起しておきたい。

今の日本国家の中に占める諸外国出自の私的勢力はどのくらいなのか。これは、ウクライナにおいても、ロシアにおいても、英国、米国においてもそうだが、それぞれ各国に公とされているのが実は全くそうではなく、私的勢力がすり替わっているかもしれない。

こうした観点から、「改革開放」政策の実現以降の中国を見るとき、中国を構成する公と諸外国から流入してきた「ヒト・モノ・カネ」の私的構成体の割合を鑑みるとき、独立戦争後の米国や明治維新以降の日本における諸外国からの私的資本の割合に対比されるように、その公の実態を外国からの私とまったく切り離された構成体として位置づけ理解することはできないのではあるまいか。誤解を恐れないで単刀直入に言えば、諸外国の私と結合した公であるとして、捉え直されるということである。

その関連から言えば、民族主義(ナショナリズム)を語る際に、私たちはこうした公と私の混在した流れを踏まえておく必要があるということなのだ。私たちが当然のように、「国のために戦う」とか「国を守るのはごく自然の人間の姿」云々と語るとき、ひょっとして私たちは、とんでもない海外の私的〈戦争屋〉利害(勢力)を、それこそ国民一丸となって防衛するように強いられているのかもしれない。日本の日清・日露戦争を振り返るとき、私にはそのようにしか思えないのだ。

それは今回のロシアのウクライナ侵攻を契機としたロシアと英米の支援を受けたウクライナとの戦争を見るにつけ、類似した感慨を抱くのだ。何しろ、戦争もその実働部隊を担っているのは世界の私的=民間戦争請負い会社であり、その会社が雇っている世界各国から集められた傭兵であると、最近ではよく報道されているから。ウクライナ国民は、なんてことはない、そうした会社の利害のために、まんまと私の語る「システム」が練りに練ったシナリオに沿って、悲惨な戦争へと導かれたということではあるまいか。

それでは話を元に戻すとしよう。ウクライナからすれば、踏んだり蹴ったりでしかないのだが、これは英米の支持を受けての代理戦争へと突入する以外に選択肢のなかった英米の子分でしかないウクライナにとっては、予想された当然の結末であろう。

どうしてもっと早く停戦が許されなかったのか。それよりも、どうしてロシアのウクライナ侵攻を止められなかったのか。侵攻後、すぐに停戦・休戦交渉ができなかったのか。①の観点からは、いろいろなことが考えられたであろうが、②の観点に立てば、2000年に入って以降、ロシアと米国の綱引き状態に直面して、ウクライナは身動きが取れないままにあったに違いない。今から見れば、ウクライナ国民にとっては、悲惨な流れとしか見えないのだが、それはこれからも続くのは間違いない。

このウクライナを見て、日本と日本人はこれから起こりうる明日の悲劇に対処しなければならないのは当然だろうが、それもおそらくは何もできないままで、悲惨な末路を迎えるのは必至であろう。情けない話だ。たとえ、①ではどのようなことを構想できたとしても、如何せん、②においては、ほとんどなす術もないのだ。それゆえ、何の気休めにもならないのだが、①に関する話をこれから以下においてしていきたい。

と言うのも、私たちは①についてすら、私の見る限りではほとんどなにも論及していないからだ。その理由としては、自由主義、民主主義、民族主義、人権、平和といった普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義に関する理解の仕方が、最初からおかしく誤ったものであるからに他ならない。そこには、私たちの歴史教育が深く関わっているのは言うまでもない。そこには私たちがこれまであまりにも長きにわたって受容してきた「歴史叙述」に関する〈神話〉が関係しているのだ。


(最初に一言)

ここで〈神話〉と言う場合、簡単に言えば、「嘘」である話にもかかわらず、それがいつしか本当のように語り継がれていくことによって、いつしかその嘘も問題にされなくなるそうした類の話ではないか、と私自身は理解している。なお、念のために以下の『ウェブリオ辞書』に依拠して神話の定義を確認してみるとき、私の意味している神話は、*2番目に該当していることを、最初に断っておきたい。

ーーー

しん‐わ【神話】
1 宇宙・人間・動植物・文化などの起源・創造などを始めとする自然・社会現象を超自然的存在(神)や英雄などと関連させて説く説話。

*2 実体は明らかでないのに、長い間人々によって絶対のものと信じこまれ、称賛や畏怖の目で見られてきた事柄。「地価は下がらないという?」「不敗?」

ーーー

さて、私はこれまでもこの種の歴史叙述における神話について論究してきたのだが、その中でも「自由主義」「民主主義」や「公と私」について、とくにそれらを「ナショナリズム」との関連から考察してきたのだが、今回は「戦争の民営化」を手掛かりとしながら、これらの歴史叙述の神話に関して、改めて考えてみたいのである。既に、今回記事の冒頭において、公と私とその関係を手始めとして、少し論及したのだが、以下においてさらに論を展開していきたい。


そもそも「公」と「私」の間には、どれほどの「隔たり」があるのだろうか。私には公=私、私=公にしか見えないのだ。私たちの歴史はずっとそうした関係を前提としてつくられてきたのではあるまいか。

ここでも念のために、公と私について、辞書で確認しておこう。

ーーー

こう【公】
[音]コウ(漢) ク(呉) [訓]おおやけ きみ

[学習漢字]2年

*1 国や官にかかわること。おおやけ。「公営・公私・公式・公認・公務・公立/奉公・官公庁」

2 世間一般。「公演・公開・公害・公共・公衆・公然・公表・公論」

*3 かたよらない。「公算・公正・公平」

*4 通じて用いられること。共通。一般。「公理・公約数」

5 君主。また、貴人。大臣。「公子/王公・三公・乃公(だいこう)」

6 人を敬って呼ぶ語。「菅公(かんこう)・君公・尊公・尼公・老公・主人公」

[名のり]あきら・いさお・さと・たか・ただ・ただし・とおる・とも・なお・ひと・ひろ・まさ・ゆき

[難読]公孫樹(いちょう)・公達(きんだち)・公卿(くぎょう)・公家(くげ)・公方(くぼう)・公司(コンス)・公魚(わかさぎ)

おお‐やけ〔おほ‐〕【公】
《「大宅(おおやけ)(大きな家)」の意から、皇居・天皇・朝廷、さらに公共の意に転じた語》

【一】[名]

*1 政府。官庁。また、国家。「?の機関」「?の費用」

*2 個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。「?のために尽くす」⇔私(わたくし)。

3 表だつこと。表ざた。「?の場に持ち出す」「事件が?になる」

4 天皇。皇后。または中宮。

「おほかたの御心ざま広う、まことの?とおはしまし」〈栄花・月の宴〉

5 朝廷。

「?の宮仕へしければ」〈伊勢・八五〉

*【二】[名・形動ナリ]ものの見方・扱い方などが偏っていないこと。また、そのさま。公平。公正。

「詞うるはしく、論?なり」〈難波物語〉


わたし【私】

(略)

*1 公でない、個人の立場。自分一身に関すること。わたくし。「私営・私学・私事・私情・私人・私腹・私欲・私立・私生活/公私・無私・滅私奉公」

2 ひそかに。表立たずに。「私語(しご)・私淑」

[難読]私語(ささめごと)

(略)

*し【私】
個人に関する事柄。わたくしごと。わたくし。「?を滅する」⇔公(こう)。

(略)

わたくし【私】
【一】[名]

*1 自分一人に関係のあること。個人的なこと。「?の用事で欠勤する」⇔公(おおやけ)。

**2 公平さを欠いて、自分の都合や利益を優先すること。また、公共のための事物を私物化すること。「?をはかる」

「造物主は天地万象を造りて?なし」〈逍遥・小説神髄〉

*3 公然でないこと。秘密であること。「?に処する」

(略)

ーーー


さて、上記の公と私の意味から分かるのは、「公平さの有無」に関してとくに注意すべきである。この点を鑑みるとき、今では公にはそれが欠落しているように見えて、私とそん色のないものとして捉えられることから、私は先に指摘したような両者を同じだとして位置づけ理解するのだ。

その点から言えば、国家も政府も、公平さを求めるのは最初から無理があるのではなかろうか。なぜなら、その構成単位は私的な利害集団であるからに他ならない。封建時代から絶対王政の世の中になって、その絶対君主が頂点に君臨する国家が、ウェストファリア体制の下で主権国家としての国際社会における「公」としての地位を容認された以降も、その実態は、公平でない私的存在であったことは否めない。

それが市民革命以降、国民が中心的担い手となった国民国家の仮面をかぶるようになっても、同じように、その性格は私的な一部特権層が公を僭称する構成物であった、と私はみている。私の語る「システム」論からも明らかなように、私たちの生きている「システム」それ自体がそもそも差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきたということを先ずもって確認したならば、私と公の間に、何か倫理的モラルめいたことを期待するのはやめたほうがいいのではあるまいか。

それはそうだとしても、私たちは、公と私との間には、何か違うものをどうしても想像してしまうのだ。そこには、当然ながら、そうした違いを強調するような教育が、歴史教育が介在しているのではあるまいか。


(最後に一言)

久しぶりに文章を書いているせいなのか、思うようには描けない。今回記事も、これまでと同じように、以前に問題提起した内容の繰り返しといった感が強い。だが、それはそうだとしても、今書いている私自身は、ロシアのウクライナ侵攻を受けてからのメディア報道とそこに登場していた専門家と称される人たちのどうにも形容しがたいウソ話のオンパレードを目の当たりにしたことから、身体というか頭に変調をきたしてしまい、どこか漂流状態のさなかにある。

それもあって、やはり今回記事の問題提起も、いつもとはどこか違うようにも思われるが、果たしてどうであろうか。今回の公と私の関係の話を前提としたとき、それこそ私たちが好きになれないと感じている中国と中国人の心身の中に、私たち日本と日本人をはじめ米国や英国やその他のいわゆる民主主義陣営に由来する〈ヒト・モノ・カネ〉はどのくらいの比率で埋め込まれているのだろうか。

そうした中国と中国人、さらには中国のほかのブリックス諸国とその国民の心身にも、多相互に関係・関連した「衣食足りて礼節を知る」営為のグローバルな関係のネットワークによって、どこまでが対象当該国にのみもっぱら由来する公と私であるかを確認することさえ、もはやできないのが現実ではなかろうか。

そうした社会と世界の中で、既に錆びついてしまった感のある「民主主義」陣営対「専制・独裁」陣営といった二項対立的図式を振りかざしながら、相も変わらずロシアの脅威からウクライナを守れと叫ぶ専門家を見て、私はその前にこの彼・彼女から私の心身を防衛しなければ、と思ってしまうのだ。

まあー、これもどうにもならない、うっとおしいことには変わらないが、①について語れることは語り尽くしておきたい、と今この瞬間は確かにそう考えている。(続)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする