中国に対する「人権外交」と「中国包囲網」を展開する先進諸国の行動は自分たちの過去の歴史を忘却した、まさに「天に唾する」所業ではあるまいか。歴史を謙虚に学び直すことがいま求められている。
二つ目の記事(2021年11月10日)を以下に紹介したい。
(2021年11月10日)
中国に対する「人権外交」と「中国包囲網」を展開する先進諸国の行動は自分たちの過去の歴史を忘却した、まさに「天に唾する」所業ではあるまいか。歴史を謙虚に学び直すことがいま求められている。
(最初に一言)
かつての欧米先進諸国を始め日本における民主主義の実現の歩みを振り返るならば、それは、他国とそこに暮らす人々の主権や人権としての自己決定権を否定・蹂躙しながら、その実現の歩みをみたのだが、それを忘却するような今日の先進諸国の中国に対する人権外交と中国包囲網の展開である。そこには、私たちの普遍的価値とその実現に関する誤った理解の仕方があるのではあるまいか。
私のこれまでの研究から理解できることは、いわゆる「市民革命」の母国である英米仏の歴史を概観するとき、それら諸国が覇権国あるいは強大国となったということである。そしてその過程において、自らが自由主義的民主主義国へと至る歩みを辿るときに、それら諸国は多くの国を自らの植民地や従属地とすることによって、それらの諸地域とそこに暮らす人々の自己決定権を奪い取ってきたという歴史的事実であった。
すなわち、市民革命の母国とされた英米仏とその他の先進諸国は、自らが民主主義を実現しながら、それにもかかわらず、それを彼らと関係を有した他の多くの諸地域には、否定しながら、差別と排除の関係をつくり出してきたということである。その関連から言えば、かつての先進諸国が辿ってきた歴史を、いま中国が同じように辿っているということなのだ。
ここには、「システム」の大きな「制約」が如実に示されている。中国という国家が、あるいは中国共産党が自ら好んで覇権国となって周りの諸国を従属させようとしているのではない。それはひとえに、「システム」とその自己完結運動のなせる業なのだ。翻って英・米・仏国や蘭国の覇権国や強大国となった歴史も、彼らが自ら好き好んで臨んだというよりも、「金の成る木」としての「システム」とその自己完結運動の「制約」に負うところが大なのである。
残念ながら、これまで私たちが教えられてきた歴史教育では、こうした歴史とその制約に関する学習がほとんど回避されたことから、私たちの歴史における重要な問題と言うかその宿痾を理解することができないままにあったということなのだ。それは、ワイツゼッカー・元ドイツ大統領による1985年5月8日、西ドイツの首都ボンでの有名な議会演説にも垣間見られるのである。
その演説は、第2次世界大戦終戦40年を記念した祝典において、ナチス・ドイツの忌まわしい「全体主義」の歴史を念頭におきながら、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と述べたことで知られているのだが、それは同時に「(自由)民主主義」の歴史に対しても、そしてそこから「全体主義と民主主義」の関係の歩みに対しても、さらに〈「システム」とその関係の歩み〉に対しても、同じく「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」、と続けて言うべきであったのだ。
いずれにしても、そこには私たちのこれまでの「歴史叙述の神話」による呪縛によって、私たちの歴史を見る(捉える)目が曇らされ続けてきたことは確かであろう。それゆえ、今日の中国に対する、自らの過去に盲目となったままでの、上から目線での避難や批判が繰り返されるのである。こうした点を踏まえるとき、私たちは一刻も早く私の語る〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉(換言すれば、〈「システム」とその関係の歩み〉)についての学習をすべきなのである。
(最後に一言)
今回の記事で述べた話は、今日の気候変動問題や脱・炭素社会、カーボン・ニュートラル、SDGs等の議論の在り方に対しても該当する、と私は考えている。私たちを取り巻く今のメディアの議論は、あまりにもこれまでの@歴史叙述」の在り方と酷似している・連動しているようで、私たちはある種の環境問題における呪縛に絡め取られている、と私は読者に強く注意・留意を促したいのである。